第11話 崩壊

 世界陸上当日。

 9月上旬。大阪。

 私は観客席にいた。ゴール地点から30mほどの位置にある関係者席。

 心臓が、もう30分も前から狂ったように打ち続けている。指先が震える。息が浅い。頬が熱い。これは緊張ではない。これは、期待だ。待ち焦がれた瞬間が、ついに来る。

 スタジアムは5万人の観客で埋め尽くされている。だが、私の目には彼しか映らない。

 マラソンのスタート地点。

 彼は、他の日本代表2名とともに、スタートラインに立っていた。

 競技場のビジョンに彼が映る。「大西鈴都(26)初出場」の文字。

 双眼鏡で彼を見つめる。手が震えて、焦点が定まらない。落ち着け、落ち着け。見逃すわけにはいかない。この瞬間を、一秒たりとも。なぜならこれが最後に生で見る彼の走る姿なのだから。

 彼の表情は緊張で強張っている。唇を噛み締め、肩に力が入っている。その目には、まだ光がある。

 曇っている。疲労で濁っている。それでも、消えてはいない。

 まだ消えてない。まだ、ぎりぎり残っている。

 完璧だ。完璧なタイミングだ。

 今日、この大舞台で、あの光は消える。

 私の胸が高鳴る。呼吸が荒くなる。頬に手を当てると、異常なほど熱い。

 スタートの号砲が鳴る。

 始まった。始まった、始まった、始まった。

 私は身を乗り出した。周りの観客が驚いた様子でこちらを見る。気にしない。どうでもいい。彼だけを見ていたい。彼が壊れるところを、この目に焼き付けたい。

 10km地点。通過タイム30分15秒。

 彼は先頭集団についている。ケニア、エチオピア、ウガンダの選手たちに囲まれながら、必死に食らいついている。

 いい。いいぞ。もっと無理をしろ。限界まで、その先まで。

 私の手のひらは汗でびっしょりだ。心臓が、胸を突き破りそうなほど激しく打っている。

 20km地点。通過タイム1時間0分15秒。

 まだ先頭集団にいる。だが、フォームがわずかに乱れ始めている。

 来た。来た、来た、来た。

 私は思わず笑みを浮かべそうになる。慌てて手で口を覆う。周りに気づかれてはいけない。この歓喜を、誰にも知られてはいけない。

 腕の振りが小さくなっている。歩幅も狭まっている。

 見える。私には見える。彼の身体が、確実に限界に近づいているのが。

 30km地点。通過タイム1時間29分50秒。

 先頭集団がペースを上げ始める。彼も必死についていく。表情が歪んでいる。苦痛が、顔に刻まれている。

 美しい。

 なんて美しいんだ。

 私の頬を、一筋の涙が伝う。これは悲しみではない。これは、感動だ。達成感だ。

 1年半かけて、少しずつ、気づかれないように、彼の身体を蝕んできた。練習メニューを調整し、休息を削り、栄養バランスを微妙に崩し、睡眠の質を下げ、ストレスを加え続けた。

 そのすべてが、今、この瞬間に収束していく。

 35km地点。通過タイム1時間46分55秒。

 先頭集団からは引き離されたが、彼はアジア人トップだった。全体で8位。

 スタジアムの大画面に、彼の姿が大きく映し出される。観客席から歓声が上がる。

 解説者の声が熱を帯びる。

「大西鈴都選手、素晴らしい走りです!アジア人トップ、全体でも8位!このままいけば、入賞も夢ではありません!」

 私は笑いを堪えきれなくなる。

 入賞などそんなものは、もうない。

 彼の右足は、もう限界を超えている。着地時のブレ。膝が内側に入りかけている。あれは筋力の低下だ。疲労骨折の前兆だ。

 もうすぐだ。もうすぐ、崩れる。

 私の息が荒くなる。心臓が早鐘を打つ。手が、脚が、全身が震える。

 40km地点。通過タイム2時間3分35秒。

 残り2.195km。

 来る。来る、来る、来る。

 私は身を乗り出し、双眼鏡を握りしめる。

 そして、それは起こった。

 彼の走りが、突然乱れた。

 フォームが崩れる。右足が地面を正しく捉えられない。足がもつれる。バランスを取り戻そうと必死に腕を振る。だが、身体は応えない。

 そして倒れた。

 アスファルトに、激しく倒れ込んだ。

 その瞬間、私の身体を、言葉にできない歓喜と快感が貫いた。

 全身の毛穴が開く。背筋を電流が駆け抜ける。視界が白く染まり、耳鳴りがする。

 私は両手で口を覆い、声を殺して笑った。

 完璧だ。完璧だ、完璧だ、完璧だ。

 これ以上の瞬間が、あっただろうか。

 世界陸上という最高の舞台で。5万人の観客の前で。世界中に中継される映像の中で。

 彼の光が、消える。

 スタジアムの大画面に、倒れた彼の姿が映る。観客席から悲鳴が響く。

 私の目から、涙が止まらなくなる。

 これは悲しみではない。

 これは、歓喜だ。

 解説者の声が悲痛に叫ぶ。「大西選手が倒れました!これは……これは深刻です!」

 医療スタッフが駆け寄る。担架が運ばれる。

 彼は首を横に振っている。立とうとしている。走ろうとしている。

 ああ、美しい。なんて美しいんだ。

 最後の瞬間まで、走ろうとしている。光を失う直前まで、輝こうとしている。

 彼は担架に乗せられ、天を仰いだ。

 その表情が、大画面に映る。

 絶望。苦痛。喪失。

 私は、その顔を凝視した。一瞬たりとも、目を逸らさない。この瞬間を、網膜に焼き付ける。

 周囲の観客と同じように、私は両手を口元に当てる。目を見開く。心配そうな表情を作る。

 だが、心の中では。

 やった。

 やった、やった、やった。

 私は内心で絶叫していた。

 完璧だ。計画通りだ。予測通りだ。

 1年半かけて積み上げてきた疲労が、最も劇的な瞬間に、最も美しい形で結実した。

 私の胸を、熱いものが満たす。

 それは罪悪感ではない。

 達成感だ。完成の喜びだ。陶酔だ。

 私は、この瞬間のために、すべてを捧げてきた。

 そして、その報酬を、今、受け取っている。

 全身が震える。涙が止まらない。呼吸が乱れる。

 私は拳を握りしめ、爪が手のひらに食い込むのも気づかないほど興奮していた。

 ああ、なんという美しさ。

 なんという完璧な崩壊。



 診断は、重度の疲労骨折と腱断裂。

 右足の脛骨に複数のひび。3箇所。アキレス腱の部分断裂。長腓骨筋の損傷。

 医師の声を聞きながら、私は唇を噛んで笑いを堪えた。

「完全に回復するまで、最低一年。競技復帰は、かなり厳しいでしょう」

 内側から込み上げる歓喜を、必死で押さえ込む。

「率直に申し上げて、トップレベルでの競技継続は、ほぼ不可能です」

 完璧だ。完璧だ。

 これ以上の結果が、あっただろうか。

 彼の競技生命は、事実上、終わった。

 私は医師に礼を言い、診察室を出た。廊下を歩く。

 一人になった瞬間、込み上げる笑いを堪えきれなくなる。

 私は壁に手をつき、肩を震わせて笑った。

 声を出さないように、必死で。だが、笑いは止まらない。

 看護師に案内され、彼のいる病室へ向かう。

 個室の前で、深呼吸をする。

 心臓が、激しく打っている。

 興奮で、気が遠くなりそうだった。

 扉の向こうで、彼の光は消える。

 いや、消えるのではない。燃え尽きるのだ。

 私は光の始まりを見た。そして今、終わりも見る。

 私だけが、その両方を見る。

 ドアを開ける。

 病室は静かだった。

 ベッドの上の彼は、ランナーではなかった。

 固定された脚。ギプスで覆われた右足。力を失った身体。

 私の姿を認めた瞬間、彼の顔が歪む。

「燈……」

 堰を切ったように、感情が溢れ出した。

 彼は、泣きじゃくった。

 ああ、美しい。

 私の胸が高鳴る。呼吸が荒くなる。全身が熱い。

 これだ。この瞬間だ。

 私はゆっくりと彼に近づいた。

 一歩、また一歩。

 この距離を、永遠に味わいたい。

 ベッドの脇に立ち、彼の手を取る。

 その手は冷たく、震えていた。

 私の手は、熱く、震えていた。

 やがて、涙は尽きた。

 そのとき、私は彼の目を見た。

 光は、なかった。

 ない。

 本当に、ない。

 消えた。完全に、消えた。

 私の全身を、言葉にできない陶酔が貫く。

 そこにあったのは、判断を放棄した視線だった。自分で未来を描くことをやめ、他者に委ねることを選んだ者の目。

 すべてを、私に委ねている。

「……どうしたらいい?」

 彼の弱々しい声が、私の耳に蜜のように流れ込む。

 ああ、なんて甘美な問いかけ。

 私は、その瞬間を深く、確かに噛みしめた。

 高校入学から数えて何年もの時間を費やし、彼の光が生まれ、育ち、燃え上がり、そして消えていくまでを、誰にも邪魔されず見届けた。

 その事実が激しい陶酔となって全身を満たしていく。

 私の頬が熱い。息が荒い。

 この結末は、偶然ではない。

 私が導き、そして創り上げた。

 私だけが、彼の人生の最も眩しい光景と、最も暗い終幕の両方を見た。

「大丈夫。これからは、私が全部引き受ける」

 彼は頷いた。

 だが、まだ完全ではない。

 まだ、彼の胸の奥に、陸上への執着が残っている。

 それを、完全に消さなければならない。

 この手で、最後の光を消し去る。

 その瞬間を、この目で見る。

 私は興奮で震える手で、彼の頭を撫でた。

「鈴都、もう十分だよ」

 私の声は、柔らかく、優しく。

「ここまで、よく頑張った」

 その言葉は、刃物のように正確に、彼の胸に入っていった。

「……でも」

 彼は弱々しく首を振った。

「まだ、走りたい気持ちは……」

 最後の炎。

 小さな、しかし確かに残っている光。

 消えかけているが、まだ消えていない。

 私の手が震える。息が荒くなる。

 この瞬間だ。

 私が、この手で、最後の光を消す。

「それは、未練だよ」

 私は即座に、遮った。

「夢を見たからこそ、終わりが苦しい。でもね、鈴都」

 私は彼の目を覗き込んだ。

「身体が壊れたっていう事実は、逃げられない」

 彼の瞳が揺れる。

 ああ、その揺らぎ。その迷い。その恐怖。

 すべてが、美しい。

「医師の話、聞いたでしょう?完全回復まで最低1年。競技復帰は、ほぼ不可能。また無理をすれば、歩くことすら難しくなるかもしれないって」

 言葉を、ゆっくりと選ぶ。

 一言一言が、彼の最後の炎を消していく。

「それでも走りたい? 一生、まともに歩けなくなるかもしれないのに?」

 長い沈黙。

 やがて彼は、視線を落とした。

「……怖い」

 その瞬間、私の全身を稲妻が貫いた。

 終わった。

 完全に、終わった。

 私は立ち上がり、彼の頭に手を置いた。

 撫でるように、祝福するように。

 内側で込み上げる歓喜を、必死で抑えながら。

「もう、走らなくていい」

 その言葉は、許可だった。

「これからは、別の形で生きよう。鈴都は、十分にやり切った」

 彼の肩からは力が抜け、彼の瞳からは美しい涙がしたたり落ちる。

 そしてその瞳にはあの追い求めた光はなかった。

 蝋燭の火が消える瞬間のように苛烈に燃え、そしてその激しさが嘘かのように静かに1本の煙が上がっていく。

 そして、蝋燭の芯にかすかに残った火種を私が冷や水をかけて、鎮火させた。

 長い長い彼の陸上人生に私がとどめを結果的には刺したのだ。

 なんて美しいのか。

 燃え上がった光が、完全に消える瞬間。

 誰にも奪われず、誰にも邪魔されず、私だけが立ち会っている。

 もう、彼は世界を見ていない。

 彼が見ているのは、私だけだ。

 彼の世界は、私だけで満たされている。

 それは、支配の完成形。

 私の頬を、また涙が伝う。

 これは悲しみではない。

 これは、歓喜だ。達成感だ。陶酔だ。

 私の全身が震える。呼吸が乱れる。全身に電気を流されたかのような愉悦がほとばしる。

 歪んでいる。狂っている。壊れている。

 でも、これが私の答えだ。

 かつて世界を目指して走っていた男は、その夜、静かに走ることをやめた。

 光は、確かに消えた。

 その瞬間は、筆舌に尽くしがたい美しさであった。

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