第9話 快進撃

「松坂陸連所属、ナンバーカード105番、大西鈴都。この福岡の地で大快走を見せています!」

 イヤホンから実況の声が割れんばかりに響く。周囲の歓声と混じり合い、耳に痛いほど流れ込むその声は、まるで現実と中継映像の境界を曖昧にするようだった。私は平和台陸上競技場のゴール地点、立入制限区域のすぐ外側で、スマホを握りしめていた。画面には彼の姿がリアルタイムで映し出されている。

「高校は三重の奥伊勢高校。大学も昭徳大学と、決して強豪校とは言えない環境から這い上がってきました、この大西鈴都!」

 その言葉の一つひとつが、彼の歩んできた道のりをなぞる。山深い奥伊勢。朝霧に包まれた細い道。陸上専用のトラックなどなく、舗装の荒れた県道を黙々と走り続けていた背中。枯れ枝のような体を一生懸命動かして過酷な練習についていった背中。それらが、否応なく脳裏に浮かんだ。

 高校3年の夏。全国大会で最下位になって泣いていた彼。

 大学1年の冬。箱根駅伝の補欠に回されて、悔しさで拳を握りしめていた彼。

 その表情を、私は覚えている。すべて、覚えている。

「全体1位という甘美な鈴の音を、この福岡の地に響かせることはできるのか!」

 鈴の音。その比喩に、私は思わず息を詰めた。彼の名前と重なり、その音が現実のものになろうとしていることが、まだ信じ切れなかった。いや、信じたくなかったのかもしれない。あまりにも順調すぎる。あまりにも、彼が輝きすぎている。

「普段は地元・大台町の製茶会社で働いており、退勤後から本格的な練習に取り組んでいます!」

 実況の軽やかな語り口とは裏腹に、その背景には積み重ねられた無数の孤独な時間があった。そして私の執念があった。

「共に走る仲間も、恵まれた練習環境も、優秀なコーチ陣もいない中で走り続ける精神力は、見張るものがあります!」

 その言葉は誇張ではなかった。誰かに褒められることも、結果を保証されることもなく、ただ"信じる"という一点だけを頼りに続けてきた走り。正確に言えば、私を信じることで、彼は走り続けてきた。

 その依存関係こそが、私の喜びだった。

「さあ、平和台記念公園グラウンドに入ります!この福岡国際マラソン、まさかまさかの勝利を収めるのはダークホース・大西鈴都! 初マラソンながら、並みいる強豪に一泡吹かせることとなりそうです!」

 私の心拍が、彼のストライドと同じリズムで跳ね始める。スマートフォンを持つ手が震えていた。汗が手に滲む。呼吸が浅くなる。

「速報タイムは、2時間8分9秒!2時間8分9秒です!」

 耳鳴りがした。

 数字が意味を持つまでに、ほんの一瞬の空白があった。だが次の瞬間、その記録が福岡国際という大舞台で、かつ初マラソンの中でどれほど異様で、どれほど鮮烈なものかを理解し、膝の力が抜けそうになる。

 2時間8分9秒。

 初マラソンで、この記録。

 彼は本当に、やり遂げたのだ。

 ゴール地点で待ち構えていた私のもとへ、係員に肩を支えられながら彼が運ばれてくる。視線が泳ぎ、必死に何かを探している。その様子が、巣から落ちたひな鳥が親の姿を求めて鳴くようで、思わず胸の奥がきゅっと締め付けられた。

 あの高校時代と変わらない。

 大学時代の箱根と同じ。

 彼は、私を探している。

 私だけを。

 テレビカメラが向けられても、彼は一切のアピールをしない。勝者の誇示も、歓喜のガッツポーズもない。ただ一直線に、私のほうへ向かってくる。周囲の喧騒も、祝福の声も、すべてを無視して。

 その姿を見つめていると、心の奥底が静かに、しかし確かに震え始める。計算し尽くしたペース配分も、練習で何度も確認したフォームも、緻密に組み上げた栄養管理も、そのすべてが今この瞬間に凝縮され、結実しているようだった。

 私の彼が、完成したのだ。

 ふらふらと、今にも崩れ落ちそうな足取りで彼が近づいてくる。私は、彼が何を口にするのかを待っていた。

「やったぞ」という誇らしげな一言かもしれない。

 あるいは、「きつかった」と淡々とした競技者らしい感想かもしれない。

 そんな予想とは外れたことを、彼は口にした。

「ありがとう」

 開口一番、息も絶え絶えに、彼はそう言った。

 たった五文字。

 けれどその言葉は、胸の奥深くに静かに染み込み、何よりも確かな温度を持って私を包み込んだ。努力も、計算も、葛藤も、そのすべてが肯定された気がした。

 そして同時にある種の空虚さも、感じていた。



 大学卒業から約1年半後。初マラソンとして挑んだ福岡国際マラソンで、彼は一躍名を知られる存在となった。

 私が設計したトレーニングプログラム。限られた時間の中で最大効率を引き出すためのメニュー。日々の食事を細かく記録し、疲労と回復のバランスを見極めた栄養管理。脚質と接地の癖に合わせて選び抜いたシューズ。そして、前半は欲を抑え、後半に勝負を託すレースプラン。

 すべてが、奇跡のように噛み合った。

 世間には、これをフロックだと見る者も少なくなかった。だが、その声は次走の東京マラソンでかき消される。強豪が揃う中での堂々たる全体五位、タイム2時間7分55秒。その走りは、再現性のある"実力"であることを雄弁に物語っていた。

 こうして彼は、無名のランナーから、日本有数のマラソンランナーへと確実に成長していった。

 大西鈴都の名前は、日本中の陸上ファンだけではなく、ミーハーなスポーツファンにも知られるようになっていた。

 高校・大学と弱小チームで練習を積んだ彼が、並み居るエリートを打ち倒して頂点に立つ。判官贔屓な日本人にとって、これ以上ない胸に熱いものがこみ上げるような熱血な展開だろう。まるで漫画のような、ドラマチックな物語。

 テレビのスポーツニュースで特集が組まれ、SNSのフォロワーは10万人を超えた。投稿するたびに何百ものいいねがつき、コメント欄には「感動しました」「応援しています」という言葉が溢れた。スポンサー契約の打診も来た。地元の企業だけでなく、大手スポーツ用品メーカーからも。

 雑誌の取材依頼も相次いだ。月に数本のペースで、陸上専門誌だけでなく、一般のスポーツ誌やライフスタイル誌からも声がかかった。彼の写真が表紙を飾り、「努力の天才」「市民ランナーの星」といったキャッチコピーが踊った。

 私は相変わらず、大阪の本社に勤務しながら、金曜日になれば終電に乗り込み、大台町へ通った。片道3時間。4本の列車を乗り継いで山間の小さな町へ。

 彼は実家の製茶会社を手伝いながら、松坂陸連所属のランナーとして日々練習を重ねていた。朝は5時に起床し、5時半から2時間走る。日中は茶畑の手入れや出荷作業。夕方4時から再び3時間走る。

 練習メニューは私が組んだ。週ごとの走行距離、インターバルの本数とペース、LSDの時間配分。栄養管理も私が担当した。タンパク質の摂取量、炭水化物のタイミング、サプリメントの種類と量。すべてをエクセルで管理し、日々の体調とパフォーマンスの相関関係を分析した。

 金銭面のサポートも私が行っていた。遠征費用、トレーニング用品、専門家への相談料。実業団に所属していない彼には、これらを自費で賄う余裕はなかった。私の給料は同世代の平均よりはるかに高かったが、それでも月に10万円近くが彼のために消えていった。

 でも、それは問題ではなかった。

 彼は完全に、私に依存していた。

 練習の内容も、レースの選択も、日々の生活リズムも、すべてが私の指示によって決まっていた。彼は自分では何も決められなくなっていた。いや、決めようとしなくなっていた。

「燈がそう言うなら」

「燈に従う」

「燈の判断を信じる」

 そんな言葉が、彼の口癖になっていた。

 私は、それに満足していた。

 彼を支配している実感が、私を満たしていた。

 でも同時に。

 別の感情も、芽生え始めていた。

 それは、ある講演会の日に決定的なものとなった。



 6月の半ば。梅雨の晴れ間の土曜日。

 私は彼に同行して、関西圏の地方都市の文化センターへ向かった。駅から徒歩15分。閑静な住宅街の中にある、少し古びた公共施設。

「市民ランナーのためのモチベーション講座」と題された講演会。主催は地元の教育委員会とスポーツ振興会。参加費は無料。定員300名のところ、応募が500名を超えたという。

 会場に着くと、既に長い列ができていた。老若男女、さまざまな年代の人々が、彼の話を聞きに来ていた。ランニングウェア姿の中年男性。子連れの主婦。学生服姿の高校生。スーツ姿のサラリーマン。

 彼らの目が、期待に輝いている。

 彼らが待っているのは私の彼だった。

 私は舞台袖で、リハーサルを見守った。照明の確認、マイクのチェック。彼は緊張した面持ちで、何度も深呼吸を繰り返していた。両手を握ったり開いたり。首を回して筋肉をほぐす。いつもの癖だ。

「大丈夫?」

 私が声をかけると、彼は小さく頷いた。

「緊張する。こんなに人が来てくれるなんて」

「鈴都なら大丈夫。いつも通り、自分の言葉で話せばいい」

 私は彼の背中を軽く叩いた。

 その手のひらに、確かな温もりを感じた。

 彼の体温。

 私が作り上げた、作品の温もり。

 午後2時。開演。

 満席の客席。通路にも立ち見の列ができている。会場全体が、期待に満ちた空気に包まれていた。ざわめきが徐々に静まり、照明が落ちる。

 彼が壇上に立つ。

 スポットライトが、彼を照らす。

 拍手が沸き起こる。

 大きな、温かい拍手。

 そして、彼は語り始めた。

「皆さん、こんにちは。大西鈴都です」

 最初は硬かった声が、次第に落ち着いてくる。場数を踏んで、人前で話すことにも慣れてきた。それは成長の証だった。

「今日は、走ることについて、お話しさせていただきます」

 スクリーンに、彼の走る姿が映し出される。福岡国際マラソンのゴールシーン。顔を歪め、最後の力を振り絞って駆け抜ける姿。東京マラソンで力走する姿。早朝の霧の中、一人で黙々と走るトレーニング中の写真。

 観客は、固唾を呑んで見守っている。

「走るっていうのは、自分と向き合うことなんです」

 彼の言葉は、静かで、誠実だった。嘘がない。飾りがない。だからこそ、人の心を打つ。

「苦しい時、逃げたくなる。でも、そこで踏ん張る。もう一歩、前に進む。その積み重ねが、自分を変えていく」

 観客が頷く。

 共感の空気が、会場を満たしていく。

「僕は、決して才能に恵まれたランナーではありません」

 彼は自嘲するように笑った。その笑顔には、苦みと諦観と、それでもなお前を向く強さがあった。

「高校時代、全国大会で最下位になりました。大学では、最初の箱根駅伝で補欠になりました。何度も、諦めようと思いました」

 観客の目が、より真剣になる。子供を連れた母親が、息子の肩に手を置いた。高校生が、身を乗り出した。

「でも、走り続けた。なぜなら、走ることが好きだったから。そして支えてくれる人がいたから」

 その瞬間、彼の視線が舞台袖の私に向けられた。

 一瞬だけ。

 でも、確かに。

 観客の何人かが、その視線の先を追って、舞台袖を見る。薄暗い中、私の姿が見えただろうか。見えなかっただろうか。

 私は平静を装って、彼に微笑み返した。

 でも、胸の奥で、何かが軋んだ。

「努力は、才能を超えられないかもしれない」

 彼の声が、会場に響く。

「でも、努力は、人を裏切らない。努力した分だけ、自分は変わる。その実感が、走ることの喜びなんです」

 拍手が沸き起こる。

 大きな、温かい拍手。

 観客の表情を見た。

 称賛。尊敬。憧憬。

 そのすべてが、彼に注がれている。

 嬉しい、と思った。

 誇らしい、と思った。

 でも同時に。

 気持ち悪い。

 胃の底から、何かがせり上がってくるような、ひっくり返るような感覚。吐き気にも似た、不快な感覚。

 これは、何だ。

 観客席の女性たちが、うっとりとした表情で彼を見つめている。目を輝かせて、彼の一言一言に反応している。頬を紅潮させ、まるで初恋の少女のように。

 若い男性が、熱心にメモを取っている。彼の言葉を、一字も漏らさないという気迫で。ペンを走らせる手が止まらない。

 高齢の男性が、深く頷いている。まるで人生の師に出会ったかのような、敬意に満ちた表情で。目頭を押さえている人もいた。

 彼らは、彼を知らない。

 高校時代の苦しみも。

 インターハイで最下位になった後、まともに食事を摂れなかった姿も。

 大学時代の孤独も。

 箱根を走れなかった夜、私に電話をかけてきて、声を詰まらせていた弱さも。

 私がどれだけ彼を支えてきたかも。

 何も知らない。

 でも、今この瞬間、彼の魅力を消費している。

 彼の言葉を。

 彼の姿を。

 彼の存在を。

 高校時代。

 三年間、苦しさに顔を歪めながら走っていた彼の横顔。

 それは、私だけが見ていた。

 大学時代。

 箱根駅伝の二区で、限界の先で私の名前を叫んだ彼の表情。

 それは、私だけのものだった。

 福岡国際マラソンのゴール後。

 疲労で言葉にならない声で「ありがとう」と囁いた彼。

 それは、私だけに向けられたものだった。

 あの表情も、あの声も、あの弱さも、強さも。

 すべて、私だけのものだったはずだ。

 でも今、それが薄められていく。

 彼の魅力が、世間に知られていく。

 彼の言葉が、大勢の人々に届いていく。

 彼の存在が、私の手を離れて広がっていく。

 濃密だった色が、次第に透明になっていくように。

 講演は1時間続いた。

 その間、私は舞台袖で立ち尽くしていた。表情は穏やかに保ちながら、内側では何かが崩壊していくのを感じていた。

 彼の話は素晴らしかった。誠実で、謙虚で、それでいて力強かった。観客を飽きさせない話術。適度なウィットに富んだユーモア。共感を呼ぶエピソード。

 完璧だった。

 そして、その完璧さが私を苛立たせた。

「最後に、一つだけ」

 彼が締めくくりの言葉を口にする。

「走ることは、孤独な戦いです。でも、本当の意味で孤独じゃない。支えてくれる人がいる。信じてくれる人がいる。その存在が、どれだけ大きな力になるか」

 また、彼の視線が私に向けられた。

「僕も、支えてくれる人がいたから、今ここに立てています。だから、皆さんも。誰かを支え、誰かに支えられながら、走り続けてください」

 万雷の拍手。

 講演会は、大成功だった。

 講演会後、控室に戻った彼は、興奮した様子だった。

「すごかったね。みんな、本当に真剣に聞いてくれてた」

 彼の目は輝いていた。高校時代に見た、あの純粋な輝きとは違う。もっと成熟した、自信に満ちた輝き。人前で称賛されることに、慣れ始めている輝き。

「質問もたくさん出たし、終わった後も関係者の何人かに声かけられた。『感動しました』って言ってくれた人もいた。サインも頼まれたよ」

 彼は嬉しそうに話し続ける。言葉が溢れ出て、止まらない。

「うん。良かったよ」

 私は微笑んだ。

 完璧な、支える者の顔で。

「燈のおかげだよ。燈がいなかったら、こんな場所に立てなかった」

 彼は私の手を握った。

 その手は温かく、力強かった。汗ばんでいて、生命力に満ちていた。

 でも、私の手は冷たいままだった。



 その夜。

 会場近くのビジネスホテルに宿泊した。

 講演会の主催者が用意してくれた部屋。広くはないが、清潔で快適だった。ツインベッドが二つ。窓の外には、たいそれたものではないが、夜景を望むことができた。

 彼はシャワーを浴びに行った。

 私はベッドに腰掛け、天井を見つめていた。

 胸の中で、暗い感情が渦巻いていた。

 制御できない何かが、膨れ上がっていた。

 これは、何だ。

 嫉妬なのか。独占欲なのか。

 違う。

 もっと深い、もっと暗い何か。

 彼の魅力が、私の知らない場所で消費されていく。

 私が長い時間をかけて独占してきた彼が、大勢の人々に分配されていく。

 高校時代から見てきた彼の表情。

 大学時代に支えてきた彼の弱さ。

 社会人になってからさらに築き上げてきた、更なる彼の私への依存。

 そのすべてが、私だけのものだったはずだ。

 でも今、それが薄められていく。

 講演会に来た観客たちは、彼を知ったつもりになる。彼の言葉に感動し、彼の生き方に共感し、彼を「素晴らしい人」だと思う。SNSに投稿し、友人に話し、彼のファンを名乗る。

 でも、彼らは何も知らない。

 高校時代、全国のレベルの高さに打ちひしがれて、「もう走れない」と泣いたことも。

 大学時代、結果が出ないことから人目も憚らずに私に抱き着いて泣きじゃくったことも。

 そして、いつも彼が「才能がない」「俺には無理だ」と自分を責め続けていたことも。

 そういう彼の「全部」を知っているのは私だけだ。

 でも、世間は彼の「表面」だけを見て、称賛する。

 美しく編集された物語だけを見て、感動する。

 それが許せない。

 どうすればいいのか。

 このままでは、彼は遠くへ行く。私の手を離れ、世界へ広がってしまう。

 講演会は増えていくだろう。

 SNSのフォロワーも増えていくだろう。

 メディアの露出も増えていくだろう。

 そして、彼は「有名人」になる。

 大勢の人々に愛される、「みんなのもの」になる。

 それは嫌だ。

 彼は、私のものだ。

 私だけのものでなければならない。

 答えは、意外なほど静かに降りてきた。

 引退させればいい。

 第一線から退かせ、競技の世界から降ろす。

 脚光の中ではなく、私の隣に置く。

 世間の視線から遠ざけ、再び、私だけのものにする。

 でも、どうやって?

 彼は今、絶頂期にいる。走ることを愛し、目標に向かって邁進している。周囲からの称賛も得て、充実している。引退を勧めても、聞き入れないだろう。

 ならば壊せばいい。

 彼の身体を。

 彼の走りを。

 彼の夢を。

 私の手で、完全に。

 その瞬間、全身に鳥肌が立った。背筋を、冷たいものが駆け上がる。

 これは、正気の考えではない。

 狂っている。

 でも止められなかった。

 むしろ、その考えが心地よかった。まるで長い間喉に引っかかっていた何かが、ようやく飲み込めたような。

 シャワーを終えた彼が、バスローブ姿で戻ってきた。濡れた髪。赤みを帯びた頬。清潔な石鹸の香り。

「燈、どうしたの?顔色悪いよ」

「ううん、何でもない」

 私は微笑んだ。完璧な、優しい笑顔で。

 「ちょっと疲れただけ」

「そっか。今日は本当にありがとう。燈がいてくれて、心強かった」

 彼はベッドに座り、私の隣に寄り添った。

「これからも、ずっと支えてほしい」

「もちろん」

 私は彼の肩に頭を預けた。

「ずっと、一緒にいるよ」

 その言葉に、嘘はなかった。

 ただ、その「一緒」の形が、彼の想像とは違うだけだった。

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて、彼がぽつりと口を開いた。

「燈、聞いてくれる?」

「何?」

「俺、世界陸上に出たいんだ」

 その言葉を聞いた瞬間、私の背筋を、冷たいものが走った。

 そして同時に、全身が震えた。

「1年半後、大阪で開催される。マラソン日本代表として、あの舞台に立ちたい」

 彼の声は、確信に満ちていた。

「今の俺なら、行ける。日本記録は無理でも、代表に選ばれるタイムは出せる。そのために、これから1年半、すべてを賭ける」

 彼の目を見た。

 そこには、燃えるような情熱があった。

 高校時代に見た、あの純粋な輝き。

 それが、より強く、より激しく、燃えていた。

 私の心臓が、激しく跳ねた。

 世界陸上。

 最高の舞台。

 最も輝く瞬間。

 そこまで連れていき、壊す。

 これ以上に美しい終わり方が、あるだろうか。

 彼が最も輝く瞬間に、彼を破壊する。

 彼が最も高く飛んだ瞬間に、彼を地面に叩きつける。

 そして、その光が消える瞬間を、最も近くで見届ける。

 世界陸上まで到達できた達成感と、もう元の自分には戻ることのできない絶望感。その2つで彼を一種の燃え尽き症候群にさせる。

 そうすれば、彼は陸上を辞め、完全に私のモノとなるはずだ。

「燈、どう思う?」

 彼が私を見つめる。

 その目には、私の承認を求める色があった。

 彼は、私の許可がなければ、何も決められない。

 彼は、私が「いい」と言わなければ、動けない。

 完全に、依存している。

「いいと思う」

 私は静かに答えた。

「鈴都なら、絶対できる。世界陸上、目指そう」

 彼の顔が、喜びで輝いた。

「本当に? 燈がそう言ってくれるなら、俺、頑張れる」

「うん。一緒に、目指そう」

 私は静かに微笑んだ。

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