第8話 箱根

 1月2日。

 大学四年生の箱根駅伝。

 私は再び、テレビの前にいた。

 彼を見守るために。いや、正確には彼が燃え尽きるのを、見届けるために。

 昨夜、彼から電話があった。

「燈、明日、走るよ」

 鈴都の声には、緊張と期待がごちゃ混ぜになっていた。抑えきれない高揚と、それでいて押し潰されそうな重圧。4年間積み重ねてきたすべてが、明日一日に凝縮される。その予感が、声の震えとなって伝わってきた。

「2区に選ばれた。花の2区。エースが走る区間だって」

 2区。

 箱根駅伝の中で、最も過酷な区間の1つ。鶴見中継所から戸塚中継所までの23.1km。序盤は横浜の市街地を抜けていく平坦な道。だが中盤に構える急こう配の権太坂、終盤に構える戸塚の壁と称される苛烈な登り坂が待ち構えている。

 選手の真価が否応なく暴かれる。華やかな花の2区という呼称の裏に、選手たちを容赦なく選別する残酷さが潜んでいる。

 彼は2年生のとき3区を、3年生のとき9区を走った。結果は区間10位前後。特段良いものではない。それでも彼にとっては、夢だった箱根を走ったという事実そのものが勲章だった。ゴール後、泣きながら私に電話をかけてきた彼の声を、私は覚えている。

 テレビの前に正座して、私は固唾を飲んで画面を見つめた。膝の上で組んだ手が、知らず知らずのうちに白くなるほど強く握りしめられていた。爪が手のひらに食い込む痛みさえ、心地よかった。

 スタート時刻の1時間前からテレビの前に陣取り、1区のスタートシーンから目を離さなかった。他大学の選手たちが映るたびに、心臓が跳ね上がる。まるで自分が走るかのような緊張。いや、それ以上の観察者としての、冷徹な興奮。

 鶴見中継所。

 同級生の1区のランナーから襷を受け取った彼が、力強く走り出す瞬間を、私は瞬きもせずに見つめた。

 画面に映る彼のゼッケン番号。昭徳大学のユニフォーム。高校時代に見た陸上部のユニフォームとは違う、深い緑色の生地が、冬の陽光を受けて鈍く光る。

 カメラがズームインし、彼の横顔が大写しになった。引き締まった顎のライン。汗一つかいていない額。だがその目には、既に戦いの色が宿っていた。

 しかし、昭徳大学は襷を受け取った時点でトップとの差は大きく開き、既に2分5秒の差がある17位であった。いくらレースが変動する2区であっても差を挽回するには、絶望的な差だった。解説者の声が、容赦なくその現実を告げる。

「昭徳大学、厳しい位置からのスタートですね。ここから巻き返すには、区間トップレベルの走りが求められますが……」

 言葉を濁す解説者の声に、私は小さく笑った。

 それでも、彼は諦めなかった。

 画面の中の彼は、まるで憑かれたように走っていた。

 一歩一歩、前を追い続ける。腕の振りが大きく、リズミカルだ。足の運びに無駄がない。高校時代から磨き上げてきたフォームが、箱根という最高の舞台で花開いている。風を切る音が聞こえてくるような錯覚に陥るほど、彼の走りは必死だった。

 5km地点。15分23秒。区間11位相当のペース。

 10km地点。30分55秒。順位は変わらず17位。だが、トップとの差は2分55秒までに広がっていた。

 彼は、それでも走った。

 十五キロ地点を過ぎた頃、一人の留学生ランナーに抜かれた。彼の前を、滑るように過ぎ去っていく。物が違った。

 だが鈴都は食らいついた。必死に、その背中を追った。苦しそうな表情を浮かべながらも、決して歩みを止めない。額に浮かんだ汗が頬を伝い、顎から滴り落ちるのが、画面越しにはっきりと見えた。

 その姿を見て、私は涙を流した。

 誇らしい。

 愛おしい。

 胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。これは感動なのか。それとも、違う何かなのか。自分でも分からなかった。ただ、画面の中で苦しみながら走る彼を見つめながら、私は確信した。

 この男は、完全に私のものになった。

 高校1年の春、陸上部の練習を見学していたとき、初めて彼を見た。彼の目には、何かが宿っていた。諦めない何か。燃え続ける何か。その光に、私は惹かれた。その光が消える瞬間を見たいと思った。

 私は彼に近づいた。応援し、励まし、支えた。彼が挫けそうになったとき、そばにいた。彼が孤独を感じたとき、声をかけた。そうして少しずつ、彼の心の中で、私という存在は不可欠なものになっていった。

 それは愛といった純粋無垢で清らかなものではない。

 それは依存だった。

 彼の、私への。

 そして私の、彼が燃え尽きる瞬間への。

 権太坂を越え、戸塚中継所が近づく。彼の走りは、最後まで乱れなかった。むしろ、ラストスパートをかけるように、ペースを上げた。歯を食いしばった苦しい表情のまま、だが目には光がある。消えていない。まだ、消えていない。

 戸塚中継所で待つ3区のランナー。後輩のランナーに、襷を渡す。その瞬間、彼の体が大きく前に傾いた。支えようとするスタッフの腕の中に、崩れ落ちるように倒れ込む。

 順位は18位のまま。しかし、彼は区間10位という、決して悪くない成績を残した。トップ校の選手たちとは、元々の身体能力が違う。それでも彼は、自分のすべてを出し切った。

 画面の中の彼は、倒れ込むようにゴールした。そしてカメラに向かって、何かを叫んでいた。口の形が、はっきりと見て取れた。

 音声は拾えていなかった。

 だが、私には分かった。

 彼は私の名前を呼んでいた。

「燈」と。

 その瞬間、私の頬を伝う涙の意味が、はっきりと理解できた。

 これは感動の涙ではない。

 彼が自分に虜だと、依存しているのだと鮮明になったことに関する歓喜の涙であった。


 

 その夜、彼から電話がかかってきた。

 スマートフォンの画面に「鈴都」の名前が表示されたとき、私は深呼吸をしてから通話ボタンを押した。心臓が高鳴っている。

「燈、見てくれた?」

 電話口から聞こえてきた彼の声は、いつもより少し高かった。興奮と疲労が混ざり合ったような、不思議なトーン。まだアドレナリンが抜けきっていないのだろう。言葉の端々に、走り切った達成感が滲んでいた。

「うん。すごかったよ、鈴都」

 私は落ち着いた声で答えた。本当は、もっと感情を込めて叫びたかった。『よくやった』と。『誇らしい』と。だが、それは違う。私は彼の感情の受け皿でなければならない。彼の興奮を受け止め、彼の疲労を癒やし、彼の存在を肯定する——そういう役割でなければならない。

「ありがとう。燈がいてくれたから、走れた」

 彼の声は、疲労で掠れていた。でも、そこには確かな満足感があった。箱根駅伝という、長距離ランナーにとって最高の舞台を走り切った達成感。その声には、それが滲んでいた。

「燈がいなかったら、俺は絶対にあの舞台に立てなかった。燈がいなかったら、俺はとっくに走ることを諦めてた」

 その言葉が、私の心を満たした。

 完璧だ。

 彼は完全に私に依存している。高校時代から、私は彼の伴走者だった。彼が挫けそうになったとき、励ました。彼が自信を失ったとき、可能性を示した。彼が孤独を感じたとき、そばにいた。そうして、少しずつ、彼の心の中で、私という存在は不可欠なものになっていった。

 私がいなければ、彼は走れない。

 私がいなければ、彼は立てない。

 私がいなければ、彼は存在できない。

 その依存こそが、私の喜びだった。

「でも……」

 彼の声のトーンが、変わった。

 その変化に、私は敏感に反応した。スマホを持つ手に、自然と力が入る。心臓の鼓動が、一拍速くなる。

「正直、悔しい」

「……悔しい?」

 私は、できるだけ自然に聞き返した。声が震えないように、意識的に息を整える。

「もっと速く走りたかった。もっと上の順位で走りたかった」

 彼は少し間を置いてから、続けた。その間に、彼が何かを決意したことが、電話越しにも伝わってきた。空気が、変わった。

「でも……これが俺の限界なんだと思う」

 その言葉に、私は何も答えられなかった。

 ただ、黙って彼の言葉を待った。私の役割は、彼の言葉を引き出すことだ。安易な慰めも、無責任な励ましも、今は必要ない。沈黙こそが、彼の本音を引き出す。

「俺の身体は、長距離ランナーとして理想的じゃない。心肺機能も平均的だし、筋肉の回復も遅い。最大酸素摂取量も、トップ選手には遠く及ばない」

 彼は淡々と、自分の限界を語った。その声には、諦めと、それでもなお燃え続ける何かが混在していた。自分を客観視できる冷静さ。だがそれと同時に、まだ消えていない情熱。

「高校の時から、ずっと分かってた。でも、認めたくなかった。努力すれば、いつか追いつけると思ってた。でも、箱根を走ってみて、やっと理解した。才能の差って、本当にあるんだって」

 沈黙が流れた。

 その沈黙の中で、私は彼の葛藤を想像した。箱根という舞台で、彼は自分の限界を知った。それでもまだ何かが燃えている。その炎が、まだ完全には消えていない。

 私の胸の奥で、何かが疼いた。

「でも、諦めたくない」

 彼の声に、再び力が戻った。

「まだ走りたい。マラソンランナーとして、日本代表を目指したい」

 その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが弾けた。

 二区を走り切って私の名前を叫んだ瞬間。あの瞬間こそが、彼の陸上人生の頂点だと思っていた。彼の情熱は華麗に燃え切り、これから緩やかに冷めていくのだと。

 だが、違った。

 彼の中の炎は、まだ消えていなかった。それどころか、より激しく燃えようとしていた。箱根という舞台で自分の限界を知りながら、それでもなお、彼は走ろうとしている。

 これ以上の愉悦があるだろうか。

 想像するだけで身震いした。全身に鳥肌が立つのを感じた。背筋を、冷たく甘美な何かが駆け上がる。

 確かに、大学生の間に彼を手中に収めることはできたかもしれない。箱根を走り切った彼を、そのまま引退させ、一般企業に就職させ、普通の社会人として生きていく彼を見守ることもできた。それでも、十分に満足できただろう。

 だが、まだ光が灯っているのであれば。

 まだ炎が燃えているのであれば。

 私も、追いかけたい。その光の行く末を見なければならない。

 彼の中で、まだ燃え続けている炎。それが完全に消え去る瞬間を、この目で見届けたい。その欲望が、抑えきれないほど大きく膨らんでいくのを感じた。心臓が、激しく脈打っている。

「でも、それはあくまで願望なんだ。実業団からの誘いはないし、もう引退するつもりなんだ。家業を継ぐことにするよ」

 彼の声には、諦めが滲んでいた。だが、その諦めはまだ完全ではなかった。

 あの高校時代の純粋な輝きは、まだ消えていなかった。ただ、諦めという薄い膜が張られているだけ。その膜を破れば、また光が溢れ出す。その光が完全に失われる前に私は手を伸ばさなければならない。

 それに。

 これ以上の愉悦を味わわせてくれるのならば。

 骨の髄まで、吸い尽くしてやりたい。

 彼の苦悩も、挫折も、それでもなお走り続けようとする姿も、すべてを見届けたい。彼が光り輝く瞬間も、絶望に打ちひしがれる瞬間も、すべてを私のものにしたい。完全に、徹底的に。

 自然と、声が出ていた。

「私とタッグを組んで、競技を続けない?」

 彼は素っ頓狂な声を上げた。

「え、え? どういうこと?」

 驚きと戸惑いが混ざった声だった。当然だろう。私自身、この提案を思いついたのは、つい数秒前だったのだから。だが、口にした瞬間、それが正しい選択だと確信した。

「私、スポーツメーカーの開発職に就くの。でも、ただ製品を作るだけじゃなくて、選手をサポートしたい。あなたをサポートしたい」

 私は言葉を続けた。一度口に出してしまえば、後は簡単だった。論理的に、彼を説得するための言葉が、次々と浮かんでくる。

「それに、大学で好成績を残したから、なかなかの高給取りからのスタートになる。鈴都を支援するぐらいのお金なら確保できるはず。トレーニング費用も、遠征費用も、シューズ代も、必要なものは全部サポートできる」

 私は自分の強みを畳み掛けた。

 実際、私は大学で優秀な成績を収めていた。スポーツ工学を専攻し、シューズの開発——特にランニングシューズのクッション性とエネルギー反発効率に関する研究で、学会での発表も行っていた。大手スポーツメーカー・アトラス社からの内定も、既に得ていた。初任給は年俸制で680万円。同世代の平均よりはるかに高い。

 そして何より私には、彼を支える理由があった。

 いや、歪んだ欲望が。

「でも、俺はもう……」

 情けない声を出す彼に、活を入れるように力強く話す。

「まだ終わってない。あなたの走り、高校時代から見てきた。あなたにはまだ可能性がある。身体能力では劣っているかもしれない。でも、あなたには諦めない心がある。努力を続ける力がある。そして何より、まだ走りたいという情熱がある」

 私の声は、自分でも驚くほど熱を帯びていた。それは演技ではなかった。本心からの言葉だった。ただ、その本心の奥底に潜む暗い欲望を、彼は知らない。

「あなたはまだ走りたいし、私はあなたに走ってほしい。それだけ」

 私がそうはっきりと言い切ると、一瞬の静寂が電話口を包んだ。

 その静寂の中で、私は彼の心の動きを想像した。驚き、戸惑い、そして希望。消えかけていた炎が、再び燃え上がろうとしている。私の言葉が、その炎に油を注いでいる。

 だが、ほどなくしてその静寂を、彼が切り裂いた。

「……わかった。もう一度、やってみる」

 その瞬間、私は心の奥底で笑った。

 声には出さなかった。ただ、心の中で、静かに、深く笑った。口元には優しい微笑みを浮かべたまま。だが内側では、何かが哄笑していた。

 光が最も美しく見えるのは、消える直前だ。

 ろうそくの炎が、最後の力を振り絞って明るく燃え上がるように。流れ星が、大気圏で燃え尽きる直前に最も輝くように。人間の情熱も消える直前が、最も美しい。

 私はその瞬間を、誰よりも近くで見る。

 息遣いも、震えも、崩れ落ちる音も、すべて。

 彼がどれだけ努力しても、才能の壁を越えられない瞬間。

 彼がどれだけ走っても、夢に届かない瞬間。

 彼が完全に、絶望的に、打ちのめされる瞬間。

 彼の光が消える瞬間をこの目で見届けるために。

 それこそが、私の救いであり、私の完成だった。

 私の暗い、深い、歪んだ欲望だった。

 彼の終わりを見届けたい。

 彼が燃え尽きる瞬間に、最も近い場所にいたい。

 電話口の向こうで、彼が何かを言っている。感謝の言葉。決意の言葉。未来への希望。

 私は優しく微笑みながら、その声に応えた。

「一緒に、頑張ろうね」

 そして心の中で、密かに期待した。

 彼の最も美しい終わりを。

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