第7話 依存の完成
2年の秋。10月から、私は月に一度、東京へ通い始めた。
最初の頃は新幹線を使っていた。新大阪駅から東京駅まで2時間半。自由席で片道約14000円。往復で約28000円。
大学生の懐には、なかなか堪える金額だった。
私のアルバイトは、大学近くのスポーツジムでのトレーナー補助。時給1200円。週に4回、1回4時間働いて、月に約77000円の収入。そこから家賃45000円、光熱費8000円、食費15000円を引くと、手元に残るのは1万円以下。携帯代を払えば、ほとんど何も残らない。
だから、翌月からは深夜バスに切り替えた。
片道3,000円ポッキリ。往復で6,000円。新幹線の5分の1ほどの価格。
金曜日の夜11時に大阪・梅田を出発し、翌朝6時に東京・新宿に到着する。座席は狭く、リクライニングもほとんど倒れない。隣の乗客のいびきが轟音のように響き、一睡もできない夜が続いた。
到着した新宿駅は、まだ薄暗い。人もまばらな私は駅構内のトイレで身だしなみを整えた。鏡に映る自分の顔は、疲労で青白い。目の下には隈ができている。
コンビニでコーヒーを買い、始発電車で彼の大学へ向かった。車内は空いている。窓の外には、目覚めつつある東京の街が流れていく。
早朝の東京に放り出される感覚は、いつになっても慣れなかった。
大学の予定もカツカツだった。金曜日の午後に最後の授業を終えたら、簡単な身支度をしに自宅へ戻り、ほどなくして梅田に向かう。そして、東京へ向かうバスに乗る。土曜日は彼の練習に付き添い、日曜日の朝には東京を発って、午後には大阪に。そんなスケジュールでも私は通った。
彼の練習を管理するために。
彼のメンタルを支えるために。
いや、違う。
彼の光が消える瞬間を見届けるために。
その言葉が、私の頭の中で何度も反芻される。月に一度、深夜バスに揺られながら、私は自問し続けた。
なぜ私は東京へ通うのか。
なぜ私は彼を支え続けるのか。
答えは、いつも同じだった。彼の光、あの純粋で、一途で、愚直なまでに真っ直ぐな輝き。それが完全に燃え尽きる瞬間をこの目で見届けるため。
それが、私の歪んだ愛情の形だった。
10月最初の週末。
私が初めて彼の練習を見に行った日。朝7時。彼の大学の陸上競技場。
秋の朝の空気は冷たく、息が白い。グラウンドには朝露がまだ残っていて、トラックが湿っている。陽の光が斜めに差し込み、スタンドの影が長く伸びている。
選手たちが、次々と集まってくる。ジャージ姿の若者たち。皆、引き締まった身体をしている。無駄な肉が一切ない、研ぎ澄まされた身体。その中に、彼の姿があった。
練習場の端、ストレッチエリアで待っていた私を見つけると、彼は驚いたように目を見開いた。そして、次の瞬間、顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「燈、本当に来てくれたんだ」
その声には、信じられないという驚きと、純粋な喜びが混ざっていた。走ってくる彼の足取りは軽く、その表情には久しぶりに見る笑顔があった。
でも、その笑顔は以前とは違っていた。
高校時代の彼の笑顔は、純粋な喜びそのものだった。何の曇りもない、屈託のない笑顔。
今の彼の笑顔には、安堵が混ざっている。そして、依存が。
まるで、溺れかけていた人が救命浮輪を見つけたような、そんな安堵の表情だった。
「約束したでしょ」
私は微笑んだ。できるだけ自然に、できるだけ優しく。
「鈴都のために来た。だから、頑張ってね」
「ああ!」
彼は力強く頷いた。その目には、かすかな希望の光が灯っていた。
練習が始まった。
「今日のメニューは、5000mインターバル。1000mを3分10秒で、5本。レスト2分。天気もいいし、みんな気合い入れていけよ」
そんな監督の呼びかけに応じて、選手たちがトラックに散らばる。準備運動をする者、シューズの紐を結び直す者、深呼吸をする者。それぞれが、自分の方法で集中力を高めていく。
私は、グラウンドの端のベンチに座り、彼を見守った。秋の陽射しが暖かい。でも、風は冷たい。ジャケットの襟を立てる。
彼は他の選手たちと一緒に、スタートラインに並んだ。10名ほどの集団。彼は、その中で真ん中あたりに位置している。
監督の笛が鳴る。
選手たちが一斉に走り出す。最初のペースは速い。でも、彼のフォームは安定している。
腕の振り。肘を90度に曲げ、前後に大きく振る。
足の運び。膝を高く上げ、着地は前足部から。
呼吸のリズム。2回吸って、2回吐く。
全てが、きれいに整っている。高校時代から磨き上げてきた、彼独自のフォームだ。
1周目。400mを72秒。ペースは完璧だ。
2周目。累積800m。フォームは依然として安定している。他の選手たちと横並びで走っている。
2周半。1000m。
ゴールイン。電光掲示板にタイムが表示される。3分5秒。
目標の3分10秒より5秒速い。素晴らしいタイムだ。
でも、彼の表情は硬かった。
息が上がっている。肩が大きく上下し、口を開けて荒い呼吸をしている。額には大粒の汗が浮かび、Tシャツの背中が汗で濡れている。
他の選手たちを見ると、余裕の表情を浮かべている。呼吸も、彼ほど乱れていない。談笑している者すらいる。
でも、彼だけが苦しそうだった。
2分間のレスト。
彼は膝に手をついて、荒い呼吸を整えようとしている。汗が、顔を伝って落ちる。地面に、小さな染みができる。
監督が声をかける。
「大西、飛ばしすぎだぞ。ペース守れ」
「はい……すみません……」
彼の声は弱々しい。
2本目のスタート。
監督の笛。
でも、明らかにペースが落ちていた。1本目よりも遅い。
1周目。400mを75秒。3秒遅い。
フォームも乱れ始めている。腕の振りが小さくなり、足の運びがぎこちない。膝が上がらず、着地が重い。
2周目。息がさらに上がっている。顔が紅潮し、苦悶の表情を浮かべている。
2周半。1000m。
ゴールイン。タイムは3分15秒。目標より5秒遅い。
「大西!何やってんだ!ペース落としすぎだぞ!1本目で体力使い果たしたのか!」
監督の怒号が、グラウンドに響き渡った。
「すみません……」
彼の声は、さらに弱々しくなっていた。
3本目。
さらにペースが落ちた。
1周目から、既に遅れている。他の選手たちが前方に離れていき、彼は集団から取り残される。
フォームは完全に崩れている。足が上がらず、腕の振りもバラバラだ。まるで、糸の切れた人形のように、ぎこちない走りだった。
2周半。
ゴールイン。タイムは3分22秒。目標より12秒遅い。
彼は、もう監督の方を見ることができなかった。俯いたまま、肩で息をしている。
4本目。彼の走りは、もはや走っているとは言えなかった。
足を引きずるように、ゆっくりとトラックを回っている。他の選手たちは既に終わっていて、クールダウンを始めている。
彼だけが、まだトラックを走っている。いや、走っていない。歩いている。
1周目。400mを90秒。
途中で、一度立ち止まりそうになった。足がもつれ、バランスを崩しかける。でも、監督の視線に気づいて、また走り出す。
2周半。
タイムは3分35秒。
5本目。もう、誰も彼を見ていなかった。
他の選手たちは、ストレッチエリアで談笑している。監督も、別の選手たちの指導を始めていた。
彼だけが、一人でトラックを回っている。
その姿は、痛々しかった。足は完全に上がらず、ほとんど歩いているような速度。顔は蒼白で、今にも倒れそうだった。
でも、彼は走り続けた。歩き続けた。
最後まで。
ゴールイン。タイムは、計測されなかった。あまりにも遅すぎて、監督が計測をやめたのだ。
練習後。
彼は、グラウンドの片隅で一人座り込んでいた。
トラックから少し離れた、芝生のエリア。顔は真っ青で、呼吸が荒い。手は膝の上に置かれ、小刻みに震えている。
髪は汗でびっしょりと濡れ、Tシャツも絞れるほど汗を吸っている。でも、彼は着替えようともせず、ただ座り込んでいた。
私は彼のもとへ歩いていった。
芝生を踏む音。彼は、その音に気づいて顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「燈……」
「お疲れ様」
私は彼の隣に座った。朝露で濡れたグラウンドの地面は冷たい。ジャケットの裾が湿る。
「ごめん……」
彼の声が震える。
「情けないところ見せちゃって」
「情けなくなんてないよ」
私は優しく言った。
「みんな、すごく速いもん。あれだけのペースについていこうとすること自体、すごいことだよ」
「でも……」
彼の声が、さらに震える。
「俺だけ、ついていけなかった。1本目は良かったのに、2本目から崩れて……」
その言葉には、深い自己嫌悪が滲んでいた。
私は、彼の肩に手を置いた。その肩は、シャツ越しでも骨ばっているのが分かる。肩甲骨の形がはっきりと手に触れる。
「鈴都はね、真面目すぎるの」
「え?」
彼は、初めて私の顔を見た。
「最初から全力で行っちゃう。1本目、3分5秒だったでしょ?目標より5秒も速い」
「でも、それが……」
「それで体力を使い果たしちゃったんだよ」
私は、静かに言った。
「わかってるかもしれないけどインターバルトレーニングは、ペース配分が全てなの。最初から飛ばしすぎると、後半持たない。持久力をつける意味ももちろんあるけど、ペース配分を学ぶ。そういう練習なんだよ」
彼は、黙って私の言葉を聞いている。
「次からは、最初の2本は少し抑えて。目標タイムぴったりか、少し遅いくらいでいい」
私は、彼の目を見つめた。
「そうすれば、3本目、4本目も同じペースで走れる。5本目は少し上げてもいい。それが、正しいインターバルトレーニングのやり方」
「本当に……?」
彼の目に、かすかな希望の光が灯る。
「本当だよ。鈴都のこと、私が一番よく知ってるでしょ?」
その言葉に、彼は小さく頷いた。
「高校の時から、ずっと見てきた。鈴都の走り方、鈴都の癖、鈴都の限界。全部知ってる」
私は、彼の肩を優しく叩いた。
「だから、私の言うこと信じて」
「分かった」
彼は、ようやく笑顔を見せた。でも、その笑顔は弱々しい。
「燈の言う通りにする」
その素直さ。
その無条件の信頼。
それが、私を満たした。
彼は、私の言うことを疑わない。私の指示を、絶対的なものとして受け入れる。
そして、その依存が深まるたびに、私の中の暗い感情も膨らんでいく。
しばらくして、監督がこちらへ歩いてきた。
「大西」
監督の声に、彼は慌てて立ち上がろうとした。でも、足に力が入らず、よろめく。私が咄嗟に支えた。
「すみません、監督……今日は……」
「いや、1本目は良かったぞ」
監督は、意外にも穏やかな表情を浮かべていた。
「フォームも安定してたし、ペースも完璧だった。タイムも速かった」
「でも、2本目から……」
「ペース配分の問題だ。最初から飛ばしすぎたんだろう」
監督は、私の方を見た。監督は、私をじっと見つめた。値踏みするような、でも同時に興味深そうな目つきで。
「大西のこと、頼まれてくれるか」
「え?」
「あいつ、最近調子が悪かったんだ。練習にも身が入らない、タイムも落ちる、表情も暗い」
監督は、グラウンドを見渡した。
「でも、今日は違った。1本目の走りを見たか?あれは良かった。目に力があった」
「はい」
「あいつには、君が必要みたいだ」
その言葉が、私の胸を満たした。
必要。
彼には、私が必要だ。
それは、監督の目から見ても明らかなほど、明確な事実だった。
「これからも、頼むよ。できれば、練習も見に来てやってくれ」
「はい。できる限り、通います」
その言葉に、監督は満足そうに頷いた。
「大西、次の練習からはペース配分を意識しろ。最初から飛ばすな」
「はい!」
彼は、力強く返事をした。
監督が去った後、私たちは二人きりになった。
「良かったね」
私は微笑んだ。
「監督、鈴都のこと認めてくれてる」
「燈のおかげだよ……」
彼は、私の手を握った。その手は、まだ震えている。汗で湿っている。でも、温かい。
「燈がいてくれるから、俺は頑張れる」
その言葉を聞いて、私の心臓が高鳴った。
そうだ。その言葉だ。
これが、私が求めていた言葉だ。
彼の依存。
彼の信頼。
彼の、私への絶対的な帰依。
翌日も、私は練習場で彼を観察し続けた。
朝7時から始まる練習。私は6時半には競技場に着いていた。今日は彼の大学からほど近い繁華街のカプセルホテルに泊まり、電車で大学に向かった。コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、彼を待つ。
そして、練習中は、ずっとベンチに座って彼を見守る。
フォームの確認。
ペース配分の観察。
呼吸のリズムのチェック。
他の選手たちとの比較。
全てをメモに取る。スマートフォンのメモアプリに、詳細に記録していく。
『1000mインターバル 1本目3分12秒 フォーム安定 呼吸やや荒い』
『2本目3分15秒 ペース維持 腕の振り小さくなる』
『3本目3分18秒 ペース落ちる フォーム乱れ始める』
練習後は、高校時代のように彼と話し込んだ。
フォームの修正点を指摘する。
ペース配分の改善策を提案する。
次回の練習への助言をする。
そして、彼は全てを素直に受け入れた。
「分かった、次はそうする」
「燈の言う通りにする」
「燈がそう言うなら、間違いない」
その投げかけられた言葉には私を満足させるものばかりであった。
でも、大学レベルの陸上は、高校とは次元が違っていた。
選手たちの身体能力は、明らかに高校生とは違う。
無駄な肉が一切なく、必要な筋肉だけが発達している。
走るフォームも洗練され、効率的で、美しい。
スピード感は圧倒的。まるで別の生き物のように、速い。
そして、彼はその中で、明らかに苦しんでいた。
11月初旬の練習。2度目の見学だ。
この日のメニューは、10000mのペース走。1kmを3分10秒で、10km。
選手たちが、スタートラインに並ぶ。15名ほどの集団。彼も、その中にいた。でも、他の選手たちとは少し距離を置いている。
監督の笛。
最初の1km。
彼のペースは完璧だった。3分10秒。目標ちょうど。前回の反省を活かして、抑えめに走っている。
2km、3km、4km。
ペースは安定している。3分11秒、3分11秒、3分12秒。素晴らしい。
でも、集団からは少しずつ遅れ始めていた。
他の選手たちは、3分8秒前後のペースで走っている。目標より速い。でも、彼らには余裕がある。
5km地点。
彼は、集団から完全に離れていた。前方を走る選手たちは、だいぶ先にいる。
でも、彼のペースは保たれている。3分12秒。ほぼ目標通り。
「大西!遅れてるぞ!」
監督の声が飛ぶ。
でも、彼は黙々と走り続けた。自分のペースを守って。私が指示した通りに。
6km、7km、8km。
集団は、もう彼の遥か前方にいる。トラックを半周以上、先行している。
でも、彼は走り続ける。3分11秒、3分13秒、3分12秒。ペースは崩れていない。
9km、10km。
ゴール。
タイムは31分58秒。目標の31分40秒より18秒遅い。
でも、彼の表情には、達成感があった。
最後まで走りきった。
ペースを守り通した。
それだけで、彼には意味があったのだ。
私は、ベンチから立ち上がり、彼のもとへ歩いていった。
「お疲れ様」
「燈……」
彼は、疲れ切った表情で笑った。
「最後まで、ペース守れたよ」
「見てた。素晴らしかった」
私は、彼の肩を叩いた。
「これが、正しい練習の仕方だよ。自分のペースを守る。無理に集団についていかない」
「でも、監督は……」
「監督は全体を見てる。でも、私は鈴都だけを見てる」
私は、彼の目を見つめた。
「鈴都に合った練習方法は、私が一番よく知ってる。だから、私の言うこと信じて」
「分かった……」
彼は、小さく頷いた。
その瞬間、チームメイトの一人—短髪の、がっしりした体格のランナーが声をかけてきた。
「大西、今日のペース走、良かったじゃん」
「あ、ありがとうございます」
彼は、ぎこちなく頭を下げた。
「でもさ、もう少し集団についていこうとした方がいいんじゃない?一人で走ってても、伸びないよ」
その言葉は、善意から来ているのだろう。でも、私は違和感を覚えた。
彼には、彼に合ったペースがある。無理に集団についていく必要はない。
「鈴都は、自分のペースで走ることを優先してるんです」
私が口を挟むと、青年は少し驚いたような表情を浮かべた。
「あ、そう……まあ、頑張ってよ」
そのランナーは、少し戸惑ったような表情で去っていった。
彼は、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「ごめん、燈……」
「何が?」
「俺のせいで、チームメイトに……」
「気にしないで」
私は、彼の手を握った。
「鈴都は、鈴都のやり方でやればいい。私がついてるから」
その言葉に、彼は小さく頷いた。
でも、その表情には、かすかな不安が浮かんでいた。
11月中旬。
私が3回目の訪問をした時、彼の様子は少し変わっていた。
練習のタイムは、確実に改善していた。インターバルトレーニングも、最後までペースを維持できるようになっていた。ペース走も、目標タイム通りに走れるようになっていた。
でも、表情は暗かった。
練習後、私たちは大学近くの喫茶店で軽食を摂った。窓際の席。外は既に暗くなり始めている。11月の夕暮れは早い。
彼は、テーブルに運ばれてきたサンドイッチを前に、手を動かそうとしなかった。
「どうしたの?食べないの?」
私が尋ねると、彼は小さく首を振った。
「いや……なんでもない」
「鈴都」
私は、彼の目を見つめた。
「私に隠し事?」
その言葉に、彼は観念したように口を開いた。
「実は……チームメイトから、少し距離を置かれてる気がするんだ」
「距離?」
私は、首を傾げた。でも、心の中では既に理由が分かっていた。
「うん。練習は一緒にやるけど、それ以外の時間、みんな俺を避けてる気がする」
彼は、寮での出来事を話し始めた。
食事の時間。彼が食堂に入ると、既に座っているチームメイトたちの会話が止まる。彼が席に着くと、気まずい沈黙が流れる。
練習後のミーティング。彼が意見を言うと、微妙な空気が流れる。誰も賛同せず、誰も反論せず、ただ黙って聞いている。
休日の飲み会。誘われることが、減ってきた。以前は必ず声をかけられていたのに、最近は誘われない。
「なんでだろう……」
彼は、不安そうな表情で首を傾げた。
でも、私には分かっていた。
彼が、私に依存しすぎているからだ。
チームの中で、彼だけが外部の人間である私に全面的に頼っている。
1回目に彼の練習を見学したころから練習方法も、ペース配分も、食事の内容も、全て私を通して決めている。
「燈が言ってた」「燈の指示で」「燈に相談してから」
そんな言葉を、無意識下で彼は頻繁に口にしているはずだ。
チームメイトたちから見れば、それは異質だ。陸上は個人競技だが、同じチームで練習する仲間意識というものは存在する。共に苦しみ、共に高め合う。そんな関係性の中で、一人だけ外部の人間に頼り切っているのは、違和感を与える。
でも、私はそれを指摘しなかった。
むしろ、都合が良かった。
「気にしすぎじゃない?」
私は優しく言った。
「鈴都は真面目だから、周りのことを考えすぎちゃうんだよ」
「でも……」
「みんな、鈴都のこと認めてくれてるはずだよ。だって、鈴都は頑張ってるもん。タイムだって改善してる」
私は、彼の手を握った。
「それに、鈴都には私がいるから。私は、ずっと鈴都の味方だから」
その言葉に、彼の表情が少し和らいだ。
「そうだね……燈がいてくれるから」
私は微笑んだ。
「それより、次の練習メニューについて話そう」
私は話題を変えた。
彼がチームメイトとの関係に悩むことは、私にとって都合が良かった。
周囲から孤立すればするほど、彼は私に依存する。
私だけが、彼の味方。
私だけが、彼を理解している。
私だけが、彼を支えている。
そう思わせることができれば、彼の依存はさらに深まる。
それが、私の望みだった。
12月上旬。
4度目の訪問を果たした日の朝、冬の寒気は容赦なく競技場を包み込んでいた。
夜明けとともに訪れた競技場は、一面の霜に覆われていた。トラックの表面は薄い氷の膜で白く輝き、アスファルトの黒さを完全に消し去っている。息を吐くたび、真っ白な蒸気が視界を遮った。手袋をしていても、指先から感覚が失われていく。空気が肺を刺すように冷たい。
しかし、この凍てつく朝の寒さは、私にとってむしろ心地よかった。
なぜなら、この頃には私の役割は完全に確立されていたからだ。
構築された支配の構造練習メニューの管理。食事内容の指導と監視。精神状態のケアと調整。睡眠時間の厳密な管理。サプリメントの選定と摂取タイミングの指示。
彼の生活における、あらゆる要素。彼の競技人生における、全ての判断。
それらを、私が担っていた。
「担っていた」というのは正確ではない。私が「掌握していた」のだ。
彼は何か決断を迫られる時、もはや自分では何も決められなくなっていた。必ず私に相談するようになっていた。それは習慣というより、もはや条件反射に近かった。
途切れることのない連絡
メールが、頻繁に届く。
朝、昼、夜。時には深夜にも。
「燈、明日のレースなんだけど、ペース配分はどうすればいい? 前半から飛ばすべきか、それとも後半勝負にすべきか……自分では判断がつかなくて」
「燈、この練習メニューで大丈夫かな。監督は週6でインターバルを入れろって言うけど、燈はどう思う? 燈の意見を聞かせてほしい」
「燈、監督がレース前日も軽く走れって言ったんだけど、どう思う? 燈なら、どうする? 俺は燈の判断に従いたい」
全てが、私を経由して決定されていく。
全ての判断が、私のフィルターを通過する。
彼の人生の舵は、完全に私の手の中にあった。
そして、彼自身もそれを自覚していた。むしろ、それを望んでいた。
「燈がいないと、俺は何もできない」
その言葉を、彼は何度も口にした。
最初は冗談めかして。
次第に、真剣な表情で。
そして最後には、まるで祈るように。
「燈がいるから、俺は走れるんだ」
「燈が支えてくれているから、俺は立っていられる」
「燈の言葉がなければ、俺はもう……」
その依存が、私を満たした。
彼の迷いが、私の確信を際立たせた。
私は彼にとって、コーチでもなく、友人でもなく、もはや全てになっていた。
でも同時に、私の中で何かが変化していた。
最初、私が彼に近づいた理由は明確だった。
彼の光の行く末を見たかった。
あの眩しすぎる心根が、音を立てて崩れ落ちる瞬間を。
彼が完全に折れる瞬間を、この目で見届けたかった。
それは加虐心の発露だったなのかもしれない。
あるいは他人にゆだねた破滅願望なのかもしれない。
これは愛情なのか。
これは所有欲なのか。
支配欲なのか、それとも保護欲なのか。
自分でも、もはや分からなくなっていた。
ただ一つ、確かなことがあった。
彼は完全に、私のものになったということだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます