第6話 依存の始まり
大学2年目の夏。7月の終わり。
ホテルの窓から見える東京の街は、熱気で揺らめいていた。アスファルトから立ち昇る陽炎が、ビル群を歪ませている。蝉の声が途切れることなく響き、冷房の効いた室内にいても、外の暑さが肌に纏わりつくような錯覚に陥る。
私は鏡の前に立ち、明日のポスター発表用のブラウスにアイロンをかけていた。スチームの白い煙が立ち上る。シワが伸びていく様子を眺めながら、頭の中では発表の流れを何度も反芻していた。
日本スポーツ科学学会年次大会。全国から500名を超える研究者と学生が集まる場だ。私たちの研究チームは教授と院生2名、そして私を含めた学部生3名から成る。発表するテーマは「持久系アスリートにおける乳酸閾値とパフォーマンスの相関」。地味だが堅実な研究だ。派手さはないが、データは確実。
アイロンを置き、ベッドに腰掛ける。スマートフォンを手に取ると、画面には彼からの未読メッセージが3件表示されていた。今朝送られてきたものだ。
『今日も朝練15km。タイムは3分02秒/km。先月より12秒落ちてる』
『膝の違和感が消えない。でも監督には言ってない。でも頑張るしかない』
最後のメッセージには、絵文字すらない。ただ、義務的に送られてきたような、短い一文だけ。
私は画面を見つめたまま、動けなくなった。
1年半。彼と会わなくなってから、それだけの時間が経っていた。
春休み。「課題が忙しい」と断った。
春の大型連休。「実験の手伝いがある」と断った。
夏休み。「学会準備で時間がない」と断った。
嘘ではない。本当に忙しかった。でも、時間を作ろうと思えば作れた。大阪から東京まで、新幹線で2時間半だ。日帰りだって可能だ。
それでも私は会わなかった。
なぜなら、彼を渇望させる必要があったから。
距離を置くことで、彼の中で私の存在を肥大化させる。会えない時間が長ければ長いほど、再会した時の感動は大きくなる。そして、その依存は深まる。
電話は週に一度。メールは毎日。でも、決して会わない。
その戦略は、うまくいっていた。彼のメールの文面が、徐々に変化していった証拠として。
最初の頃は、前向きな内容だった。
『今日は5000mのタイムトライアル。15分23秒だった!まだまだだけど、頑張る!』
『新しいシューズを買った。燈に見せたいな』
『チームメイトと焼肉食べた。みんないい奴ばかりで恵まれてる』
それが、3ヶ月前あたりから変わり始めた。
『タイムが伸びない。何が悪いんだろう』
『1年生に抜かれた。悔しいけど、実力差を感じる』
『最近、眠れない日が続いてる』
そして、先月から。
『もう限界かもしれない』
『才能ってどうしようもないな』
『俺、箱根駅伝なんて夢見すぎてたのかも』
彼の言葉から、希望が失われていく。前向きさが削がれていく。光が、少しずつ消えていく。
私はベッドに仰向けになり、天井を見つめた。エアコンの送風口から、冷たい風が顔に当たる。
これは、好機なのか。それとも、危機なのか。
彼が完全に折れかけているなら、今が私の出番だ。崩れ落ちる寸前の彼を支え、救い上げる。そうすれば、彼は完全に私に依存する。私なしでは立ち上がれなくなる。
でももし彼が陸上そのものを諦めてしまったら。走ることを、完全にやめてしまったら。
それは、私が望む結末ではない。
あの純粋で、一途で、愚直なまでに真っ直ぐな輝き。彼の光が消える瞬間を見届けたい。でも、それは彼が走り続けている前提での話だ。彼が走ることをやめてしまえば、その光は消えるのではなく、ただ消滅するだけだ。
燃え尽きる炎を見たいのか、それとも吹き消された炎の煙を見たいのか。
私が望むのは、前者だ。
スマホを握りしめる。画面には、彼の名前。大西鈴都。
指が震えた。
送信するべきか。
それとも、もう少し様子を見るべきか。
でも、胸騒ぎが消えない。
このまま放置すれば、彼は本当に壊れてしまうかもしれない。走ることをやめてしまうかもしれない。それは、私が最も避けたい結末だ。
私は深呼吸をして、メッセージを打ち込んだ。
『実は今、東京に来てる。明日の午後、時間ある?』
指が、送信ボタンの上で止まる。
押せば、全てが動き出す。1年半の静けさが破られる。再び、彼と私の関係が始まる。
でも、それは本当に正しいのか。
私は何をしようとしているのか。
彼を救いたいのか。それとも、支配したいのか。
自分の感情が、分からなくなっていた。
ただ、一つだけ確かなことがある。
彼を手放したくない。
彼の光を、まだ見ていたい。
私は、送信ボタンを押した。
画面に「送信済み」の文字が表示される。もう、取り消せない。
心臓が、激しく脈打った。
手のひらに、汗が滲む。
スマホを握る手が震える。
既読がつかない。
彼は今、何をしているのだろう。練習中だろうか。それとも、休憩中だろうか。
しかし、ものの数秒で既読がついた。
『本当に!? 会える!?』
感嘆符が二つ。珍しい。最近の彼のメッセージには、こんな感情表現はなかった。
次のメッセージが来る。
『どこでもいい。何時でもいい。燈の都合に全部合わせる』
その返信の速さと、文面の切迫感に、私は何かを察した。
彼は私からの連絡を、ずっと待っていた。
画面を見つめる時間が、増えていた。
通知音が鳴るたびに、期待と落胆を繰り返していた。
そして今、ようやく届いた私からのメッセージに、彼は飛びついた。
私は静かに返信を打った。
『学会が午前中に終わる。午後2時、そっちの大学近くのカフェでどう?』
返信は、すぐに来た。
『行く! 絶対行く! 待ってる!』
また感嘆符。彼の興奮が、画面越しに伝わってくる。
私はスマートフォンを胸に抱き、目を閉じた。
明日、1年半ぶりに彼と会う。
その時、彼はどんな表情をしているだろう。
あの純粋な笑顔は、まだ残っているだろうか。
それとも、もう消えかけているだろうか。
窓の外から、蝉の声が響いている。
私は、彼の光が完全に消える前に、もう一度それを確かめたかった。
翌日の午後1時50分。
約束の場所に着くと、彼は既にカフェの前で待っていた。
雑居ビルの3階。狭い階段を上がった先にある、ネットで適当に見つけたこぢんまりとしたカフェ。看板は色褪せ、入口のドアには「OPEN」の札が斜めにかかっている。
でも、彼の姿を見た瞬間、私は立ち止まった。
あまりにも、変わっていた。
高校時代の彼は、引き締まっていながらも健康的な体型をしていた。筋肉質だが、適度に肉がついていて、若々しさがあった。
今、目の前にいる彼は骨と皮だけだった。
飾り気のないグレーのTシャツから覗く腕は、まるで針金のように細い。二の腕の筋肉は削げ落ち、骨の形がはっきりと浮き出ている。首も異様に細く、鎖骨がくっきりと見える。頬はこけ、顎のラインがナイフのように鋭い。
でも、何より私を驚かせたのは、その目だった。
目の下には深い隈ができている。白目は充血し、焦点が定まっていない。まるで、何日も眠れていないような、虚ろな目。
高校時代に見た、あの純粋な輝きは消えかけていた。
いや、ほとんど消えていた。
かろうじて残っている光は、そよ風であっても吹いてしまえば、すぐに消えてしまいそうなほど、儚かった。
「燈……」
彼は私を見つけた瞬間、その場に崩れ落ちそうになった。
膝が折れる。身体が前のめりになる。
私は咄嗟に駆け寄り、彼の腕を掴んだ。
その腕は、驚くほど細かった。
握った瞬間、骨だけが手に触れる。肉がほとんどない。まるで、枯れ枝を握っているような感触。
「鈴都、大丈夫?」
私の声に、彼はゆっくりと顔を上げた。
「ごめん……ちょっと貧血気味で」
その声は弱々しく、息も上がっている。階段を上がってきただけで、こんなに消耗するのか。
「入ろう。座って」
私は彼の腕を支えながら、カフェの扉を開けた。
店内は、予想以上に静かだった。客は数組だけ。窓際のカウンター席に、パソコンを開いている女性。奥のテーブル席に、本を読んでいる老人。
店員が「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。
私たちは窓際の席に座った。外の喧騒から少し離れた、静かな場所。
彼は座るなり、テーブルに両手を置いた。その手は、小刻みに震えている。
「飲み物、何にする?」
「コーヒーで……」
彼の声は、まだ弱々しかった。
私はアイスコーヒー二つを注文した。店員が去ると、私は改めて彼の顔を見つめた。
俯いたまま、なかなか顔を上げない彼。テーブルに置かれた手は、まだ震えている。昨日のメッセージの溌溂さが噓のようであった。
「鈴都」
私が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。
その目は、虚ろだった。焦点が合わない。どこか遠くを見ているような、空虚な視線。
私は、その変化に戦慄した。
これほどまでに、彼は追い詰められていたのか。
これほどまでに、彼は孤独だったのか。
コーヒーが運ばれてきた。彼はコップを手に取ろうとしたが、手が震えてまともに持てなかった。何度か試みた後、諦めたようにコップから手を離した。
「最近、調子が悪くてさ」
彼は、ポツリポツリと語り始めた。
言葉を選ぶように。自分の状況を、整理しながら話しているかのように。
「タイムが全然伸びない。むしろ落ちてる」
彼の視線は、テーブルの上のコーヒーに注がれている。
「5000mのタイムが、去年より30秒遅くなった。10000mも同じ。先月のハーフマラソンの記録会では、チーム内で下から3番目だった」
その言葉の一つ一つが、重く沈んでいく。
「朝も夜も走ってる。食事も完璧に管理してる。監督の指示も全部守ってる。プロテインも飲んで、サプリメントも飲んで、睡眠時間も確保して」
彼の手が、コップを握りしめる。その手は、まだ震えている。
「でも、結果が出ない。周りはどんどん速くなってるのに、俺だけ置いていかれてる」
彼の声が、少しずつ掠れていく。
「1年生の新人に抜かれた。去年まで俺より遅かったチームメイトが、今は俺より20秒も速い。俺だけが、進歩してない。俺だけがずっと同じ場所で足踏みしてる」
カフェの中は、他の客たちの談笑で賑わっていた。カウンターの女性がカタカタとキーボードを叩く音。奥のテーブルで本のページをめくる音。
でも、私たちの席だけが、まるで別の空間にあるかのように静寂に包まれていた。
「チームメイトは優しい。『鈴都、無理しないで』『調子が戻るまで待とう』って言ってくれる」
彼は、自嘲するように笑った。
「でも、その優しさが逆に辛い。俺が足手まといだって、証明してるみたいで」
その言葉を聞いて、私の胸が締め付けられた。
痛みが湧きあがる一方、興奮がゾクゾクと湧きあがる。
一般的な感覚と、彼を虐めたい加虐者としての欲望がふつふつと湧きあがる。
「才能がないんだと思う」
その言葉は、まるで自分に言い聞かせるように、静かに発せられた。
「いや、分かってた。高校の時から。周りには、明らかに俺より才能がある奴らがいた。同じ練習をしても、あいつらはどんどん速くなる。でも、俺は変わらない」
彼は虚空を見つめている。その視線の先には、何もない。
「でも、努力でカバーできると思ってた。人の倍練習すれば、いつか追いつけると。人の倍走れば、才能の差を埋められると」
彼の声が、震える。
「でも、無理だった」
コップに入ったコーヒーが、彼の震える手で波打っている。
「どれだけ必死になっても、埋められない差がある。才能っていう、どうしようもない壁がある。努力だけじゃ、超えられない」
その言葉の一つ一つが、彼自身を切り刻んでいくかのようだった。
「もう、限界なのかもしれない」
彼の目から、一筋の涙が流れた。
それを拭おうともせず、彼は続けた。
「何のために走ってるのか、分からなくなってきた。箱根駅伝? マラソン? そんなの、俺には無理なんじゃないか」
「夢を見すぎてた。身の程を知らなかった」
彼は、自分を責めるように言葉を重ねる。
「高校の時、インターハイで最下位になった時点で、気づくべきだったんだ。俺には、トップレベルで走る才能なんてないって」
その瞬間、私の心臓が激しく跳ねた。
これだ。
これが、私が待っていた瞬間だ。
彼が完全に折れかけている。
彼の光が、消えかけている。
今、私が手を差し伸べれば、彼は完全に私に依存する。私なしでは立ち上がれなくなる。私なしでは、何もできなくなる。
奇妙な感情が胸を満たした。
理想が叶いそうである喜び、彼が傷つき自分を卑下している悲しみ、弱った姿を自分だけに見せてくれる興奮。
全てが混ざり合って、判別がつかない。
彼の苦しみを見て、私は確かに高揚している。彼が弱っていく姿に、何かが満たされていく。
でも同時に、胸が締め付けられるような痛みもある。
これは、愛情なのか。
それとも、支配欲なのか。
所有欲なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
私は、自分の感情が分からなくなっていた。
「鈴都」
私は彼の両肩を掴んだ。
その肩は、驚くほど骨ばっていた。肉がほとんどない。肩甲骨の形が、はっきりと手に触れる。
「私がついてる」
その言葉に、彼は顔を上げた。
虚ろだった目に、かすかな光が灯る。
「一人で抱え込まないで。辛い時は、私に話して」
私は、彼の目をまっすぐ見つめた。
「私は、鈴都のために何でもする」
その言葉に、彼の目に希望の光が灯った。
かすかだが、確かに灯った。
消えかけていた蝋燭の炎が、再び揺らめき始めた。風が吹けばすぐに消えてしまいそうな、儚い光。でも、確かに灯った。
「本当に?」
彼の声が震える。
「本当に、俺の傍にいてくれる?」
その声には、切実な響きがあった。
まるで、溺れている人が救命浮輪に縋りつくような。崖から落ちそうな人が、最後の綱にしがみつくような。そんな、必死な響きが。
「当たり前でしょ」
私は、彼を抱きしめた。
カフェの片隅で、二人の大学生が抱き合っている。
周りの視線が、こちらに向けられる。カウンターの女性が、一瞬こちらを見た。奥のテーブルの老人も、本から目を上げた。
でも、構わなかった。
彼の身体は、驚くほど軽かった。
骨と皮だけの身体。走ることに全てを捧げた身体。そして今、その身体は限界に達していた。
「私は、ずっと鈴都を見てきたよ」
私は彼の背中を撫でながら言った。
その背中の骨が、はっきりと手に触れる。肩甲骨、脊椎、肋骨。全てが浮き出ている。
「高校の時から、ずっと。鈴都の全部を知ってる」
「鈴都の強さも、弱さも、輝いてる時も、苦しんでる時も、全部」
「燈……」
彼の声が、震える。
そして、次の瞬間。
彼は声を上げて泣いた。
酒も煙草も嗜める年齢に達した男が、カフェの片隅で、人目もはばからず泣いている。
肩が激しく震える。嗚咽が漏れる。涙が、私のブラウスを濡らしていく。
周囲の視線が、さらに集まる。でも、私は気にしなかった。
それほどまでに、彼は追い詰められていたのだ。
それほどまでに、彼は孤独だったのだ。
それほどまでに、彼は私を必要としていたのだ。
私は彼の背中を優しく撫で続けた。
その背中には、もう肉がほとんどなかった。骨と皮だけ。まるで、突いたら壊れてしまいそうなほど、脆い身体。
数分後、彼の嗚咽が少しずつ落ち着いてきた。
でも、まだ私の胸に顔を埋めたまま、彼は離れようとしなかった。
私は、それを許した。
彼が安心できるまで、このままでいい。彼が落ち着くまで、抱きしめ続けよう。
そして、彼の依存を、さらに深めよう。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
目は赤く腫れている。涙の痕が、頬を伝っている。鼻水も出ている。でも、その表情には、かすかな安堵が浮かんでいた。
「燈」
彼は、掠れた声で言った。
「お願いがあるんだ」
私は黙って頷いた。
「関東に来てくれないか」
その言葉を、私は待っていた。
この言葉を聞くために、私は1年半もの間、距離を置いてきた。
この言葉を聞くために、私は彼を渇望させ続けてきた。
「俺の傍にいてほしい」
彼の声が震える。
「燈がいないと、俺はもう……」
言葉が途切れる。
「燈がいないと、俺は走れない」
その吐露は、まるで祈りのようだった。
「燈がいないと、俺は何もできない」
神に祈る熱烈な信者のように、彼は私に縋りついている。
その姿が、私を満たした。
ついに、この言葉を聞けた。
彼は完全に、私に依存している。
私なしでは、もう何もできない。
私は、彼にとって必要不可欠な存在になった。
だが、私は首を横に振った。
「ごめん」
その一言に、彼の顔からサッと血の気が引いた。
唇が震える。目が見開かれる。まるで、最後の希望を奪われたかのような表情。
「そんな……」
その声は、絶望に満ちていた。
「私には大学がある」
私は静かに、でも確固として言った。
「卒業しないと。4年間通わないと、卒業できない」
「じゃあ、俺は……」
彼の声が、震える。
私は彼の手を握った。
その手は冷たく、震えていた。まるで、凍えているかのように。
「でも」
私は、彼の目をまっすぐ見つめた。
「週末なら会いに来れる」
彼の目に、かすかな光が戻る。
「毎週は無理かもしれない。でも、月に1回は必ず来る」
「本当に?」
その声には、縋るような響きがあった。
「約束する」
私は、彼の手を強く握りしめた。
「鈴都のために、できる限りのことはする。だから」
私は、彼の目を見つめた。
「走り続けて」
その言葉に、彼は力強く頷いた。
目には、涙がまだ残っている。でも、その奥に、かすかな希望の光が灯っていた。
私は、その光を見つめながら思った。
まだ足りない。
もっと依存させる。
もっと私を必要とさせる。
そして。
その光が完全に消える瞬間を、この目で見届ける。
それが、私の目的だった。
それが、私の歪んだ愛情の形だった。
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