第3話 第一の挫折

 2年生、3年生と時が過ぎ、彼の生活はますます研ぎ澄まされていった。

 いや、研ぎ澄まされたというよりも、削ぎ落とされていったと言った方が正しいかもしれない。

 朝練習の前に自主練をこなすようになった。始業の3時間前には既にグラウンドにいる。薄暗い中、一人で黙々と走る姿は、どこか異様だった。

 昼食は、食事の楽しさを一切排除したかのような内容になった。玄米のおにぎり、茹でた鶏胸肉、ブロッコリー、バナナ。味付けは最小限。ただ、必要な栄養素を摂取するためだけの食事。

 放課後の練習は、誰よりも早くグラウンドに出て、誰よりも遅くグラウンドを去る。日が完全に沈んでも、街灯の明かりの中で走り続けることもあった。

 そんな陸上のためにチューンアップされた、まるで機械のような生活。

 クラスメイトの中には、それを面白がる者もいた。

「大西、マジでロボットみたいだな」

「あいつ、人間らしいことしてるの見たことないわ」

 そんな陰口を叩きながらも、誰も彼に直接話しかけようとはしなかった。それほどまでに、彼は孤立していた。

 だが、そんな過酷な練習の甲斐あってか、彼の記録は着実に伸びていった。

 5000mのタイムは、15分台前半まで縮まった。県内では、トップクラスの記録だ。

 そして3年生の夏、彼はついにインターハイの舞台に立った。

 男子5000m。全国から集まった強豪たちが、同じトラックに立つ。

 彼の持ちタイムは、出場選手の中では下から数えた方が早い。だが、それでもインターハイの舞台に立てたことは、誇るべきことだった。少なくとも、私はそう思った。

 しかし、現実は甘くなかった。

 インターハイの会場は、大阪の競技場だった。

 収容人数五万人を超える巨大なスタジアム。馴染みある県営陸上競技場とは、規模が違う。スタンドを埋める観客の数も、選手のレベルも、すべてが別次元だった。

 私はスタンドの上段から、彼を見下ろした。

 トラックに並ぶ選手たち。その中に、彼の姿があった。紺色のユニフォームは、周囲の強豪校の派手なデザインと比べて地味だった。

 スタートラインに並ぶ選手たちの体格を見て、私は息を呑んだ。

 みんな、筋肉質だ。特に、留学生ランナーたちの身体は彫刻のように美しく、力強い。彼の細い身体が、あまりにも頼りなく見えた。

 号砲が鳴った。

 選手たちが一斉に飛び出す。

 最初から、ペースが速い。

 1周目で、既に先頭集団が形成された。その中に、彼の姿はない。中団のやや後ろに位置している。

 2周、3周と進むにつれ、先頭集団はさらにペースを上げた。留学生ランナーたちが、まるで別次元のスピードで走っていく。

 彼は必死に食らいついていこうとした。だが、足がついていかない。呼吸が乱れ、フォームが崩れていく。

 4周目で、彼は完全に先頭集団から離された。

 5周目、6周目。じりじりと順位を落としていく。中団も突き放され、後方グループに飲み込まれていく。

 私は拳を握りしめて見守った。

 頑張れ。諦めるな。

 でも、願いは届かなかった。

 ラスト1周を知らせる鐘が鳴る頃には、彼は最後尾まで下がっていた。それでも彼は走り続けた。前に進もうとした。

 彼が最後にゴールラインを越えた瞬間、スタンドからは拍手が起きた。最後まで走りきった選手への、敬意の拍手。

 だが、それは同時に、敗者への慰めでもあった。

 記録は15分32秒。自己ベストからは大きく遅れた記録だった。

 そして、順位は最下位。

 彼はトラックに膝をついて、大きく息を吐いた。両手で顔を覆い、しばらく動かなかった。

 私は、その姿を見つめながら、複雑な感情に襲われた。

 悲しい。彼が敗北した。彼が苦しんでいる。

 でも同時に、心の奥底で、小さな熱が灯った。

 彼の光が、揺らいでいる。

 あの純粋な輝きが、初めて大きく曇った。

 その瞬間を、私は見逃さなかった。


 

 インターハイから戻った彼は、まるで魂が抜けたようだった。

 練習は続けていたが、以前のような鋭さが消えていた。走るフォームに迷いが見え、ペースも安定しない。タイムも伸び悩んでいる。

 最下位という結果が、彼の心に深い傷を残していた。

 レース後の1週間、彼は痛々しかった。

 休み時間、机に突っ伏したまま動かない。昼食もほとんど喉を通らないようで、半分残して席を立つ。放課後の練習も、明らかに集中力を欠いていた。

 私は彼を見守りながら、どう声をかけていいか分からずにいた。

 慰めの言葉は空々しく響くだろう。励ましも、彼には届かない気がした。

 だが、何も言わないのも違う気がした。

 そんな中、運命を変える出来事が起きた。

 インターハイから2週間が経った、ある日の放課後。

 顧問が私たちを呼び止めた。

「大西、それと水谷も。ちょっといいか」

 いつもは無関心な顧問が、珍しく真剣な表情をしていた。何事かと思いながら、私たちは職員室に向かった。

 職員室に入ると、そこには見知らぬ男性が立っていた。

 50代ぐらいだろうか。日焼けした顔に、鋭い眼光。スポーツウェアを着ていて、明らかにただの来客ではない雰囲気があった。

「初めまして」

 男性は私たちに向かって頭を下げた。

「私は昭徳大学陸上競技部の監督をしております、秋田と申します」

 昭徳大学。

 箱根駅伝の常連校だ。しかし、強豪というわけではない。毎年出場はしているものの、上位争いには絡めない。繰越スタートの常連で、復路の中継所でアナウンサーが「諦めない走り」を讃える、そんな大学。

 でも、箱根には出ている。

 それだけで、彼にとって充分すぎるほどの価値がある。

「大西君、君のレースを、インターハイで見させてもらった」

 監督は、彼を真っ直ぐ見つめながら言った。

 彼は息を呑んだ。まるで信じられないものを見るような目で、監督を見つめている。

「正直に言うと、結果は良くなかった」

 監督の言葉に、彼の表情が曇る。

「君は最下位だった。タイムも、自己ベストを大きく下回った。客観的に見れば、失敗したレースだった」

 その言葉が、彼の傷口に塩を塗るように響く。私は思わず、監督を睨んだ。

 だが、監督は続けた。

「しかし、私は君の走りに何かを感じた」

 彼が顔を上げた。

「最後まで諦めない姿勢。離されても、離されても、食らいついていこうとする執念。ゴールした後も、悔しさで立ち上がれないほど全力を出し切った姿。そういうものは、簡単には身につかない」

 監督の声には、確信があった。

「君は身体能力に恵まれているとは言えない。だが、君には諦めない心がある。それは、どんな才能よりも価値があると、私は信じている」

 彼の目に、光が戻り始めた。

「大西君、うちに来てくれないか」

 その言葉に、彼の身体が震えた。

「うちは強豪校じゃない。毎年当たり前のようにシード権を確保している大学には勝てないかもしれない。でも、本気で箱根を目指す選手を育てたいと思っている。大西君、君の力を、もっと伸ばせると信じている」

 沈黙が流れた。

 彼の目から、涙がこぼれ落ちた。

「……本当に、ですか」

 震える声で、彼は尋ねた。

「本当だ」

 監督は力強く頷いた。

「君なら、箱根の舞台に立てる。そう確信している」

 その言葉を聞いた瞬間、彼の中で何かが弾けたようだった。

 堰を切ったように涙が溢れ出す。彼は両手で顔を覆い、肩を震わせた。

「ありがとうございます……ありがとうございます……」

 何度も何度も、彼は頭を下げた。

「僕、絶対に箱根に出ます。必ず、期待に応えます」

 その姿を見て、私の胸に複雑な感情が渦巻いた。

 嬉しい。彼の夢が、一歩近づいた。彼が救われた。それは、心から嬉しかった。

 でも同時に、不安が胸を締め付ける。

 彼が遠くへ行ってしまう。

 私の手の届かない場所へ。

 彼の世界が、また広がってしまう。

 それは、私にとって許容しがたいことだった。


 

 監督が帰った後、私たちは二人きりでグラウンドに残った。

 夕焼けが空を赤く染めている。蝉の声が、遠くから響いてくる。夏の終わりの匂いが、風に乗って流れてきた。

 彼は何度も深呼吸をして、興奮を抑えようとしていた。

「信じられない……本当に、箱根に挑戦できる」

 その声は、震えていた。喜びと、興奮と、そして僅かな不安が混ざっている。

「良かったね、鈴都」

 私は笑顔を作って言った。

 でも、その笑顔がどれほど歪んでいたか、自分でも分かっていた。心の中は、乱気流が襲ったかのようだった。

 嬉しい。でも、辛い。

 彼が前に進む。でも、私から離れていく。

 その矛盾した感情に、私は引き裂かれそうだった。

「燈……」

 彼が私を見つめた。

 その瞳には、涙の跡がまだ残っている。でも、輝きが戻っていた。あの純粋な光が、再び灯っている。

「本当にありがとう。燈がいなければ、俺はここまで来れなかった」

 彼の言葉が、私の胸に突き刺さる。

「燈が支えてくれたから、諦めずに走り続けられた。燈が記録してくれたから、自分の成長が見えた。燈がいてくれたから、孤独じゃなかった」

 その言葉の一つ一つが、私を満たしていく。

 でも、同時に、足りない。

 まだ足りない。

 彼は私に感謝している。でも、それは「支えてくれた人」としての感謝だ。「いなければ生きていけない」という絶対的な依存ではない。

「……鈴都は、昭徳大学に行くんだね」

 私は静かに言った。

「うん。絶対に箱根に出る」

 その意志は、強固だった。

 それもそうだろう。私が追い求めてきた彼の光の源泉は、箱根駅伝、そしてその先にあるマラソンランナーという夢なのだから。

 その夢が叶う可能性が見えた今、彼の光はこれまで以上に強く輝いている。

「実は、私も進路を決めたんだ」

 私は静かに告げた。

「え?」

 彼が驚いた顔をする。

「至志館大学のスポーツ科学探求科に進むことにした」

「至志館大学って、関西の……?」

 彼の声に、動揺が滲んだ。

「うん。スポーツ科学を体系的に学びたい。トレーニング理論、栄養学、スポーツ生理学。全部、ちゃんと学んで、もっと鈴都を支えられるようになりたいから」

 それは、半分本当で、半分は嘘だった。

 確かに、私は陸上競技の科学に興味を持つようになった。彼を支える中で、独学で学んできた知識を、体系的に学び直したいという気持ちはあった。

 それが、表向きの理由だ。

 だが、本当の理由は別にある。

 私は、彼と距離を置きたかった。

 物理的な距離を置くことで、彼に私の存在の大きさを実感させたかった。

 私がいない日々を経験させることで、私がいかに彼の支えになっていたか、痛感させたかった。

 そして、彼を完全に依存させたかった。

 離れることで、縛る。

 それが、私の戦略だった。

 彼はきっと、昭徳大学からスカウトされなくても、自力で箱根駅伝に出場資格のある関東の大学へ進学していただろう。

 一度、距離を置く。関東と関西。物理的に離れることで、水谷燈という存在が大西鈴都の中でどれほどのウェイトを占めていたか、実感させる。

 そうやって、私の重要性を思い知らせた後、彼は私に依存してくれるはずだ。

 そして私は、必死に勉強した。

 全国的にも有名な名門大学、至志館大学。スポーツ科学探求科は、倍率の高い人気学科だ。そこに合格するために、私は誰よりも勉強した。

 なぜそこまでするのか。

 ただ彼と物理的な距離を置きたいだけなら、関東から離れた地で就職すればよかった。わざわざ難関大学を目指す必要はないし、これほどまでに早い時期に合格を勝ち取る必要はなかった。

 だが、私には別の計算があった。

 大西鈴都というランナーは、確かに陸上に対する熱意は並外れている。だが、才能があるわけではない。

 彼の身体は、長距離向きではない。強靭な心肺機能も、回復の速い筋肉も、持っていない。平たく言えば、陸上に向いている身体的機能は、彼にはない。

 そんな彼が、箱根の舞台で大活躍できるとは思えなかった。

 昭徳大学は、確かに箱根に出場している。でも、弱小校だ。そんな大学で、才能のない彼が、どこまで通用するのか。

 おそらく、彼は挫折する。

 箱根の舞台には立てるかもしれない。だが、花の2区を走るという夢は、叶わないだろう。日本代表のマラソンランナーになるという夢も、遠い。

 その時、彼の光は消える。

 ろうそくの灯が消えるように、まばゆい光を放ってから一気に鎮火するのか。それとも野焼きの火のように、じわじわと勢いが弱まり、いつの間にか消えているのか。

 私は、その瞬間を見届けたかった。

 彼の光の行く末を、最後まで見ていたかった。

 そのためには、彼に少しでも長く陸上を続けてもらわなければならない。

 挫折した時、彼を支える存在が必要だ。経済的にも、精神的にも。

 だから、私は一種のタニマチになろうと決めた。

 彼を支え続けるために、稼がなければならない。そのためには、就職が有利な大学に進学する必要がある。

  特待生で合格した私にとってゼミも研究室も他の学生よりも優遇されるだろう。それはガクチカが充実することの表れであった。

 そして尚且つ、至志館大学は、就職率が高い。特にスポーツ関連企業への就職に強い。卒業後、私はスポーツメーカーや健康産業に就職し、彼を経済的に支え続けることができる。

 そうやって、彼を私に依存させる。

 そして、彼の光が消える瞬間を、この目で見届ける。

 それが、私の計画だった。

 「燈、俺と一緒に関東に来ないか」

 彼が言った。

 その声には、切実な響きがあった。まるで、私が離れることが信じられないという風に。

「一緒に箱根を目指そう。燈がマネージャーとして傍にいてくれたら、俺はもっと強くなれる。燈がいないと、俺は……」

 その言葉が、嬉しかった。

 彼は私を必要としている。私がいないと困ると言っている。

 でも、同時に、物足りなかった。

 まだ足りない。

 彼は私を必要としている。でも、それは「いた方がいい」という程度だ。「いなければ生きていけない」という絶対的な依存には、まだ至っていない。

 だから、私は離れる。

 離れることで、彼に私の大きさを実感させる。

「ごめん、鈴都」

 私は首を横に振った。

「私には私の道がある」

 彼の顔に、失望が浮かんだ。

「でも、離れていても、ずっと鈴都を応援してる。連絡も取り続けるから。データも送ってね。分析してアドバイスするから」

「……そっか」

 彼は小さく頷いた。

 その表情には、寂しさが滲んでいた。でもすぐに、いつもの穏やかな笑顔を取り繕った。

「燈が自分の道を歩むのは、素敵なことだよね。俺も、燈に負けないように頑張るよ」

 その笑顔が、どこか無理をしているように見えた。

 目は笑っていない。

 口元だけが笑顔を作っている。

 その表情を見て、私の心は満たされた。

 心の中で、私は静かに呟いた。

 これでいい。

 離れることで、あなたは気づくはずだ。

 私がいかに大きな存在だったか。

 私がいない日々が、どれほど辛いか。

 そして、いつかあなたの光が消える瞬間、私はまた傍にいる。

 あなたが完全に砕け散る瞬間を、この目で見届ける。

 そして、その時こそ、あなたを完全に私のものにする。

 夕焼けが、さらに深い赤に染まっていた。

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