第2話 離れ小島
それから私は、彼の練習を徹底的に観察し始めた。
いや、「観察」という言葉では生温い。私がしていたのは、記録というよりも監視に近かった。
朝練の開始時刻と終了時刻。走行距離。ラップタイム。心拍数。表情の変化。呼吸のリズム。汗の量。給水のタイミング。ストレッチの順番と時間。筋力トレーニングの種目、回数、セット数、インターバルの長さ。
すべてをノートに記録していく。
最初は大学ノートだった。方眼紙のマスを丁寧に区切り、日付、時刻、項目ごとに分類して書き込んでいく。ページが埋まっていく感覚が心地よかった。彼の一日が、私の文字によって記録されていく。それは、彼の時間を私が所有しているような錯覚を与えてくれた。
だが、すぐに手書きでは追いつかなくなった。
スマートフォンのアプリを使ってデータ化するようになった。表計算ソフトに入力し、グラフ化する。月ごとの走行距離の推移、週ごとの平均ペース、心拍数の変動パターン。数値が視覚化されていくのを見るのは、奇妙な快感があった。
彼の身体は、データになった。
そして、そのデータを管理しているのは、私だ。
図書館で陸上競技の専門書を借りた。『長距離走トレーニング理論』『マラソンの科学』『ランナーとの関わり方』。借りられる冊数の上限まで借り、放課後や休日に読み込んだ。
インターネットでも調べた。箱根駅伝の歴史、各大学の練習方法、トップランナーのインタビュー記事。海外のランニング動画にも目を通した。英語の論文も、翻訳アプリを駆使しながら必死に読んだ。
栄養学の本も読んだ。長距離ランナーに必要な栄養素、効果的な食事のタイミング、疲労回復を促す食材。鉄分摂取の重要性、水分補給の最適な量。知識が増えるたびに、それを彼に伝えた。
「大西君、鉄分が不足してるかも」
ある日の昼休み、私は彼の弁当を覗き込みながら言った。
「野菜ばっかりだね。長距離選手は貧血になりやすいから、レバーとかほうれん草を意識的に摂った方がいいよ」
彼は箸を止めて、私を見た。
「そうなんだ。知らなかった」
「それと、タンパク質も大事だけど、炭水化物も削りすぎない方がいい。エネルギー源がないと持久力が落ちるから」
「分かった。明日から気をつけるね」
彼は素直に私の助言を聞き入れてくれた。疑うことなく、全面的に信頼してくれている。
その信頼が、私を満たした。
翌日、彼の弁当の中身が変わっていた。レバーの甘辛煮、ほうれん草のおひたし、鮭の切り身。明らかに私のアドバイスを反映した内容だった。
「燈のアドバイス、母さんに伝えたんだ」
彼は嬉しそうに笑った。
「そうしたら、すぐに献立を変えてくれた。母さんも、僕の夢を応援してくれてるんだ」
その言葉に、私は複雑な感情を抱いた。
彼の母親が協力的なのは良いことだ。だが、同時に、私の領域が侵されているような気もした。彼の食事まで管理したかった。それは、さすがに行き過ぎだと理性では分かっていたが、感情は別だった。
時には、彼自身も調べて意見を交換することがあった。
「燈、この記事読んだ? 高地トレーニングの効果について書いてあるんだけど」
彼がスマートフォンの画面を見せてくる。
「うん、読んだ。でも、高地トレーニングは設備が必要だから、今の僕たちには難しいかも」
「そうだよね……」
彼は少し残念そうにしたが、すぐに気を取り直した。
「じゃあ、今できることを全力でやるしかないね」
そうやって、私たちは少しずつ、確実に二人三脚の関係を築いていった。
いや、二人三脚というのは正確ではない。
私は彼を支えていたが、同時に彼を縛り付けていた。知識を与え、助言をし、記録を管理することで、彼の陸上人生における唯一無二の存在になっていく。
一ヶ月が過ぎる頃には、私は完全に彼の専属マネージャーとしての役割を確立していた。
練習前のストレッチの補助。アキレス腱を伸ばすとき、私が彼の背中を押す。その背中は、いつも汗ばんでいて、熱かった。
給水のタイミング管理。気温と湿度、練習強度に応じて、最適な水分補給量を計算した。「今、200ml飲んで」と指示を出す。彼は素直に従った。
月間走行距離の集計。エクセルシートに入力し、グラフ化する。目標に対する達成率を計算し、次月の計画を立てる。
体調の変化の記録。顔色、声のトーン、歩き方の僅かな変化まで見逃さない。「今日は疲れてるね、少しペースを落とそう」と提案する。彼は最初は抵抗したが、次第に私の判断を信頼するようになった。
できることはすべてやった。
そして何より、私は彼の走る姿を見続けた。
汗を流しながら必死に足を動かす姿。苦しそうに呼吸を整える姿。それでも決して歩みを止めない姿。すべてが、私の心を満たしていった。
彼の光を、誰よりも近くで見つめている。
この特等席は、私だけのものだ。
その事実が、私に奇妙な充足感を与えた。
私とタッグを組んで初めて挑んだ大会は、県の陸上競技選手権大会だった。
六月の終わり、梅雨の晴れ間に行われた大会。会場は県営陸上競技場。普段練習している高校のグラウンドとは比べ物にならないほど立派な施設だった。
彼は5000mに、一年生ながら出場した。
スタートラインに立つ彼を、私はスタンドから見つめていた。紺色のユニフォームを着た彼は、周囲の選手たちと比べて明らかに華奢だった。大学生や社会人も混じっている。体格も、雰囲気も、明らかに格が違う。
だが、彼の目には迷いがなかった。
スタートの合図が鳴った。
選手たちが一斉に飛び出す。彼は中団あたりにつけて、冷静にペースを刻んでいく。1周、2周、3週。淡々と周回を重ねる。
だが、5周目あたりから、前との差が開き始めた。
先頭集団がペースを上げたのだ。彼は必死に食らいついていこうとしたが、足が追いつかない。じりじりと離されていく。
私は拳を握りしめて見守った。
頑張れ。もう少し。諦めないで。
心の中で叫び続けたが、現実は厳しかった。
ラスト1周の鐘が鳴る頃には、彼は中団よりやや後ろまで下がっていた。それでも、彼は最後まで走りきった。ゴールラインを越えた瞬間、彼は膝に手をついて大きく息を吐いた。
記録は、17分22秒。
全体の順位は、26位。決して悪い記録ではない。大学生や社会人も混じったこの大会で、高校一年生がこのタイムを出すのは大健闘と言えた。
だが、彼にとってこの結果は芳しいものではなかった。
表彰式を遠目に眺めながら、彼は何も言わなかった。表彰台に上がったのは、14分台前半を叩き出した選手たちだ。強豪校に所属する同年代のランナーの中には、既に全国レベルの記録を持つ者もいる。
箱根駅伝を目指すには、圧倒的に足りない。
そんな現実を、彼は誰よりも理解していた。
大会から戻る汽車の中、彼は窓の外を見つめたまま一言も発しなかった。
私は隣に座り、そっと彼の横顔を観察する。
悔しさに歪む表情。固く結ばれた唇。拳を握りしめた手。そこには、敗北を噛み締める純粋な苦悩があった。
その様子を見て、私の胸に温かいものが広がっていくのを感じた。
彼が苦しんでいる。
彼が孤独に戦っている。
そして、その傍らにいるのは、私だけだ。
誰も彼を慰めない。誰も彼を励まさない。彼の痛みを分かち合えるのは、私だけ。
この瞬間、私だけが彼の世界の全てなのだ。
「……鈴都」
私は静かに声をかけた。
彼はゆっくりと顔を向けた。目が少し赤い。私が見ていないところで泣いていたのかもしれない。
「悔しいね」
「……うん」
彼は小さく頷いた。
「でも、これが今の実力なんだ。現実を見なきゃいけない」
「そうだね。でも、まだ1年生だよ。これからだよ」
「そうだけど……」
彼は言葉を濁した。
「箱根は、遠いな……」
その呟きが、私の胸を締め付けた。
でも、同時に、心の奥底で小さな喜びが芽生えた。
もっと苦しんで。
もっと私を必要として。
その光が揺らぐ瞬間を、もっと見せて。
大会の翌週から、彼の練習はさらに激しさを増した。
朝練の距離は7kmに延びた。いつの間にか2km増えていた。始業前の時間帯、まだ霧が完全に晴れない中、彼は黙々と走り続けた。
放課後も、10km走を基本メニューに組み込んだ。インターバル走、ビルドアップ走、ペース走。様々なメニューを週ごとにローテーションさせる。
休日には、高校生にはいささかハードスキル20km以上の長距離走をこなすようになった。奥伊勢の山道を走る彼を、私は自転車で追いかけた。給水ポイントを設定し、タイムを計測し、ペースを記録する。
当然、身体への負担は大きかった。
夏が近づくにつれて気温も上がり、彼の顔色は次第に悪くなっていった。目の下には隈ができ、頬はこけていく。体重も落ちた。元々細身だったのに、さらに痩せて骨が浮き出るようになった。
それでも、彼は走ることをやめなかった。
私は心配しつつも、同時にその姿に異常な満足感を覚えていた。彼が自分を追い込む姿。限界まで走り続ける姿。それは、彼の純粋さの証明だった。
だが、周囲の目は冷ややかだった。
そんな彼を、クラスメイトたちは次第に奇異な目で見るようになった。
一学年が50人にも満たない狭いコミュニティだ。誰が何をしているか、すぐに知れ渡る。彼の異常なまでの練習量も、当然噂になった。田舎ならではの排他的な空気感が学校にも蔓延していた。
「大西って、いつも一人で走ってるよな」
廊下を歩いていると、そんな声が聞こえてきた。
「休み時間も疲れて寝てるし、話しかけづらいわ」
「なんか近寄りがたいっていうか……ストイックすぎて怖い」
そんな囁き声を、私は何度も耳にした。
彼は気づいているのだろうか。自分が少しずつクラスから浮いていることに。
休み時間、誰もが談笑している中、彼だけが机に突っ伏して眠っている。昼食も一人で手早く済ませ、すぐに仮眠に充てる。放課後は真っ先にグラウンドへ向かい、誰とも雑談しない。
友人を作ろうとする素振りは、一切なかった。
陸上部の同級生たちも、次第に彼から距離を置くようになった。
ある日、短距離をやっている同級生が声をかけた。
「大西、ちょっと練習きつすぎじゃね?」
彼は給水しながら、顔を上げた。
「そう?」
「そうだよ。俺ら部活って、もっと楽しくやるもんだと思ってたんだけど。お前見てると、なんか……息苦しくなるわ」
その言葉に、少ない部員たちも頷いた。
彼は少し考えるように黙り、それから淡々と答えた。
「楽しむためじゃなくて、速くなるために走ってるから」
その一言で、空気が凍りついた。
短距離の同級生は、呆れたように肩をすくめた。
「そっか。まあ、頑張って」
それ以降、陸上部で彼に話しかける者はいなくなった。
幽霊部員はますます顔を出さなくなり、真面目に活動している短距離や跳躍の選手たちも、彼を避けるようになった。彼の存在が、部全体の空気を重くしているように感じられたのだろう。
彼の周りには私だけが残った。
完璧だ、と私は思った。
彼が孤立していく。周囲から切り離されていく。そして、彼の世界に残るのは陸上と、私だけになっていく。
この状況を作ったのは彼自身だが、それを維持しているのは私だ。
私が彼の唯一の理解者として傍にいることで、彼は他の誰とも繋がる必要を感じなくなっている。私が彼のすべてを受け止めることで、彼は他者を必要としなくなっている。
私は、彼を孤立させている共犯者だった。
いや、主犯者かもしれない。
なぜなら、私はこの状況を望んでいたのだから。
夏休みが近づいた7月のある日、決定的な出来事が起きた。
クラスで夏祭りに行こうという話が持ち上がったのだ。
地元の夏祭りは、この町で一番大きなイベントだ。花火も上がるし、出店も並ぶ。毎年、多くの学生が浴衣を着て集まる。
昼休み、クラスの中心的な女子グループが企画を立てた。
「じゃあ、行ける人で集まろうよ!7月の25日、役場前に集合で」
周囲が盛り上がる中、誰かが彼に声をかけた。
「大西君も来る?」
彼は弁当を食べる手を止めて、顔を上げた。
「ごめん、祭りの日も練習があるから」
即座の返答だった。
「えー、たまにはいいじゃん! 息抜きも大事だよ?」
クラスの女子が笑いながら言ったが、彼は首を横に振った。
「息抜きは必要ない。記録が伸びない方が、よっぽど苦しい」
その瞬間、教室の空気が変わった。
誘った女子の笑顔が、僅かに引きつる。周囲の生徒たちも、微妙な表情を浮かべた。
沈黙が流れた。
誰も、それ以上何も言えなくなった。気まずい空気の後、話題は自然と別の方向へ流れていった。彼の存在は、まるで最初からそこになかったかのように。
私は自分の席から、その一部始終を見ていた。
彼は何事もなかったかのように、再び弁当を食べ始めた。周囲の空気の変化に、まったく気づいていないようだった。
放課後、私は彼に声をかけた。
「鈴都、さっきの断り方、ちょっときつかったかもね」
彼は不思議そうな顔をした。
「そうかな」
本気で分かっていない様子だった。
「別に嫌味を言ったつもりはないんだけど。ただ、本当のことを言っただけで」
「うん、分かってる。でも、みんなちょっと距離を感じてるかもしれない」
私がそう言うと、彼は少し考え込むように黙った。それから、小さく笑った。
「……そうか。でも、仕方ないよ。僕には目標があるから。そのためなら、孤立しても構わない」
その言葉を聞いて、私の心臓が高鳴った。
孤立しても構わない。
彼は自分の意志で、周囲との繋がりを断とうとしている。そして、その選択を私は止めない。むしろ、後押ししている。
私が彼の夢を全力で支えることで、彼は他の誰も必要としなくなっている。彼の世界は、どんどん狭くなっている。
そして、その狭い世界の中心に、私がいる。
「鈴都は強いね」
私はそう言って微笑んだ。
「燈がいてくれるから」
彼もまた、穏やかに微笑み返した。
その笑顔に、私の中で何かが満たされていく。
暗く、深い満足感。
これでいい。
これが、私の望んだ形だ。
夏休みに入ると、彼の孤立はさらに決定的なものになった。
クラスのグループメッセージには、彼はほとんど反応しなかった。既読すらつかないことが多い。誰かが話しかけても、返信は「了解」「無理」といった素っ気ない一言だけ。次第に、彼宛のメッセージは途絶えていった。
夏祭りの日、私は自宅で過ごしていた。SNSを開くと、クラスメイトたちの投稿が次々と流れてきた。
浴衣姿の集合写真。花火の動画。屋台の食べ物の写真。楽しそうに笑う顔。
その中に、彼の姿はなかった。
私はスマホを置いて、窓の外を見た。遠くから、祭囃子の音が聞こえてくる。
そして、彼のことを思った。
夜が深まっていく今もなお、彼はグラウンドで走っているのだろう。一人で、黙々と。誰もいない場所で、ただ自分と向き合って。
翌日、朝早く私はグラウンドに行った。そこにはいつも通り彼の姿があった。
「昨日、祭りだったね」
私が言うと、彼は給水しながら頷いた。
「うん。花火の音が聞こえたよ」
「行きたくなかった?」
「全然」
彼は即答した。
「燈は行ったの?」
「ううん、行かなかった」
「そっか」
彼は微笑んだ。
「燈も、陸上の方が大事なんだね」
その言葉が、私の胸を温かくした。
違う。私にとって大事なのは陸上じゃない。
あなただ。
あなたの光を、誰よりも近くで見ていることが、大事なんだ。
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