第4話 予想外

 至志館大学のキャンパスは、18年生活した奥伊勢とは対照的に華やかだった。

 関西屈指の名門大学。赤レンガ造りの重厚な校舎が並び、手入れの行き届いた中庭には四季折々の花が咲き誇る。春真っ盛りの今、銀杏並木が若葉をつけ、柔らかな緑が陽光を浴びて輝く。

 学生たちは皆、自信に満ちた表情で行き交っている。

 デザイナーズブランドのバッグを肩にかけた女子学生たち。高級外車で通学する裕福な家庭のご子息たち。ここは勝者たちの楽園だった。全国から集まったエリートたちが、自分の能力と将来を疑うことなく、青春を謳歌している。

 私はその中で、異物のような存在だった。

 いや、正確には、そう感じていた。

 周囲の学生たちは、サークル活動に熱中し、恋愛を楽しみ、将来について語り合っている。友人同士で旅行の計画を立て、週末はカフェで談笑し、キャンパスライフを満喫している。

 でも、私には興味がなかった。

 そんなものは、どうでもよかった。

 私の心は、常に関東を向いていた。

 新幹線で2時間半の距離。そこにいる彼のことを、四六時中考えていた。

 私はスポーツ科学探求科で、黙々と学び始めた。

 トレーニング理論、スポーツ生理学、栄養学。筋肉の収縮メカニズム、エネルギー代謝の複雑な経路、パフォーマンスを最大化するための科学的アプローチ。

 授業は刺激的だった。

 高校時代、独学で学んできたことが、体系的に整理されていく。教授たちの講義は最先端の研究に基づいており、最新の論文に触れるたびに、新しい世界が開けていく感覚があった。

 知識が増えるたびに、私は彼を支える自分の姿を想像した。

 彼のフォームを科学的に分析し、筋電図を用いて無駄な動きを特定する。最適なトレーニングメニューを組み、ピークパフォーマンスをレース当日に持ってくる。栄養摂取のタイミングを分単位で管理し、疲労回復を促進するサプリメントを選定する。

 そうやって、彼を完璧なランナーに仕立て上げる。

 いや、正確には違う。

 彼を完璧に「管理」する。

 彼のすべてを把握し、彼のすべてをコントロールし、彼を完全に私の支配下に置く。

 知識は、支配の道具だった。

 でも、それ以上に私を満たしたのは、彼との距離だった。

 物理的な距離。

 関西と関東。新幹線で2時間半。新大阪駅から東京駅まで、最速種別に乗れば、確かに2時間半で着く。

 しかし、そこから彼の大学までさらに1時間以上。乗り換えも必要だ。そして何より、往復で3万円近くかかる交通費。大学生の私にとっては、簡単に支払える金額ではなかった。

 その距離が、私に奇妙な高揚感を与えた。

 高校時代、私は彼のすぐ傍にいた。毎日顔を合わせ、彼の走る姿を見守り、彼の悩みを聞いた。

 でも、それは同時に、彼が私以外の人間とも交流できる環境でもあった。

 物理的に近すぎると、かえって存在が軽く見られる。いつでも会えると思うから、当たり前の存在になってしまう。空気のように、なくてはならないが、意識されない存在に。

 でも今は違う。

 彼は関東で、私は関西で。簡単には会えない。その距離が、逆説的に私たちを結びつける。

 彼が孤独を感じた時、物理的に傍にいてくれる人間はいない。チームメイトはいるだろう。監督もいるだろう。でも、彼らは彼の本当の姿を知らない。高校時代の彼を知らない。彼がどれほど孤独に練習してきたか、どれほど悔しい思いをしてきたか、知らない。

 それを知っているのは、私だけだ。

 そして、その事実が、彼の中で私の存在を特別なものにする。

 距離が、依存を育てる土壌になる。

 そう確信していた。


 

 大学生活が始まって1ヶ月が経った頃、彼から最初のメールが来た。

『燈、元気にしてる? 大学生活はどう?』

 短く、当たり障りのない内容だった。

 私はすぐには返信しなかった。

 メールを受信してから、丸一日放置した。その間、携帯を何度も手に取り、画面を見つめた。返信したい衝動を、必死で抑えた。

 なぜすぐに返信しないのか。

 それは、彼に「すぐに返信してくれる相手」と思わせないためだ。

 すぐに返信すれば、彼は安心してしまう。「燈はいつでも反応してくれる」という安心感が、依存を弱める。

 だから、あえて遅らせる。

 彼を少しだけ不安にさせる。「燈は忙しいのか」「俺のメールを見てくれたのか」「俺は忘れられているのか」。そんな小さな不安を、彼の心に植え付ける。

 そして、翌日の夜、ようやく返信した。

『元気だよ。大学の勉強が忙しくて、返信遅れてごめん。鈴都は?練習順調?』

 彼からは、すぐに返信が来た。

『うん、順調。でも、大学の練習はレベルが違うから、ついていくのが大変』

『そっか。でも、鈴都なら大丈夫だよ』

 短く、励ます。でも、具体的なアドバイスはしない。

 それが私の戦略だった。

 思惑通りメールの頻度は、次第に増えていった。

 最初は週に一度だったメールが、週に二度、三度になり、やがてほぼ毎日になった。

『燈、今日は15km走った。でも、タイムは思ったより伸びなかった。どうすればいいかな?』

『監督から、フォームを修正しろって言われた。腕の振りが大きすぎるって。燈がいたら、すぐに指摘してくれたのに』

『チームメイトとうまくいかない。みんな仲良くやってるけど、俺だけ浮いてる気がする。どうしたらいいんだろう』

 文面から、彼の孤独が滲み出ていた。

 それが、私を満たした。

 私は携帯の画面を何度も確認した。彼からのメールが届いていないか。新しい悩みが送られてきていないか。

 メールが届くたびに、私の心臓は高鳴った。

 彼は私を求めている。

 私がいないことで、彼は苦しんでいる。

 高校時代とは違う苦しみ。走ることの辛さではなく、孤独の辛さ。無名高校出身の自分が認められない焦燥感。周囲との実力差を感じる絶望感。

 そして何より、理解者がいない孤独感。

 高校時代、彼には私がいた。毎日、練習を見守り、記録を管理し、悩みを聞いてくれる私が。でも今は、物理的に離れている。いつでも会えるわけではない。電話やメールでしか繋がれない。

 その距離が、彼の心に私という存在を深く刻み込んでいく。

 だが、私はまだ満足していなかった。

 彼は私を必要としている。でも、それはまだ「いてくれたら嬉しい」という程度だ。

 そうではない。

 「いなければ生きていけない」という絶対的な依存。それを彼に植え付けなければならない。

 だから、私は返信を少しずつ遅らせるようにした。

 最初は一日。次は二日。そして、時には三日。

 彼からのメールを既読にせず、あえて放置する。

 携帯が震えるたびに、メールを開きたい衝動を必死で抑える。画面に表示される彼の名前を見つめながら、じっと我慢する。

 その間、彼は何を考えているだろう。

 「燈は忙しいのか」

 「燈は俺のことをどう思っているのか」

 「燈は俺を見捨てたのか」

 そんな不安が、彼の心を蝕んでいく。

 そして、ようやく私から返信が来た時、彼は安堵とともに、さらに深く私に依存していく。

『ごめん、実験が忙しくて返信遅れた』

『フォームの修正は、動画を送ってくれたら見るよ』

『チームメイトのことは、焦らなくて大丈夫。鈴都は鈴都のペースでいいんだよ』

 短く、当たり障りのない返事。

 彼が本当に求めているのは、もっと具体的なアドバイスだろう。「腕の振りをどう直せばいいか」「どんなトレーニングをすればタイムが伸びるか」「チームメイトとどう接すればいいか」。

 そういった、彼の悩みに直接答える言葉。

 もっと寄り添う言葉だろう。「辛かったね」「頑張ってるね」「鈴都はすごいよ」。そういった、彼の心を癒す言葉。

 高校時代の私なら、そうしていた。

 でも、今は違う。

 あえて与えない。

 具体的なアドバイスを与えれば、彼は自分で問題を解決できるようになってしまう。優しい言葉をかけすぎれば、彼は私がいなくても心の平穏を保てるようになってしまう。

 そうではない。

 彼には、私がいなければ何もできないと思わせなければならない。私がいなければ走れないと、心の底から信じ込ませなければならない。

 そうすることで、彼の中で私の存在が大きくなっていく。

 私は至志館大学の最新設備が整ったトレーニング施設で、黙々と知識を蓄えた。

 スポーツ科学実験室。そこには、筋電図測定装置、呼気ガス分析装置、高速度カメラなど、最先端の機器が揃っている。

 私は授業の合間に、そこで実験を繰り返した。

 被験者の筋肉の活動を測定し、動作を解析し、データを蓄積していく。そして、そのデータから、最適なトレーニング方法を導き出す。

 将来、彼を完璧に管理するために必要な知識を、一つ残らず吸収していく。

 そして夜、一人暮らしのアパートで、私は彼からのメールを読み返す。

 その文面から滲み出る苦悩を味わいながら、私はゆっくりと微笑む。

 良い傾向だ。

 彼は確実に、私への依存を深めている。

 でも、まだ足りない。

 もっと。もっと彼を追い詰めないと。



 10月の半ば、気温が下がり始めた頃。

 私が大学の実験室で筋電図の解析をしていた時、彼から電話がかかってきた。

 午後2時過ぎ。授業が終わり、実験室で一人、パソコンの画面とにらめっこしていた時だった。

 携帯が震える。画面には彼の名前が表示されている。

 私は少し驚いた。

 彼から電話がかかってくることは、ほとんどなかった。メールが主で、電話は月に一度あるかないか。それも、夜の時間帯が多かった。

 こんな時間に電話をかけてくるということは、何か特別なことがあったのだろう。

 私は深呼吸をしてから、電話に出た。

「もしもし」

「燈、聞いてくれ!」

 声が震えていた。

 いや、震えているというより、弾んでいた。興奮と喜びが、電話越しにも伝わってくる。息が上がっている。走った直後なのか、それとも興奮で呼吸が乱れているのか。

「箱根駅伝の予選会、通過した!昭徳大学、本戦に出場できるんだ!」

 その言葉を聞いた瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。

 でも、それは喜びだけではなかった。

 複雑な感情が、胸を満たした。

 嬉しい。彼の夢が、また一歩近づいた。

 高校時代、グラウンドで「箱根を走りたい」と言っていたあの日から。彼が純粋な目で夢を語っていたあの瞬間から。その夢が、現実のものになろうとしている。

 でも同時に、焦燥感が胸を焼いた。

 彼は、私がいなくても走り続けている。

 成長している。

 大学の監督の指導を受け、チームメイトと切磋琢磨し、自分の力で予選会を突破した。

 まるで、私の不在など、大した問題ではなかったかのように。

 実験室の無機質な白い壁を見つめながら、私は深呼吸をした。

 心臓が激しく脈打っている。手が微かに震えている。これは喜びなのか、それとも焦りなのか。自分でも判別がつかなかった。

「すごいね、鈴都。おめでとう」

 私は努めて明るく答えた。

 声のトーンを上げ、笑顔を作る。電話越しでも、その笑顔が伝わるように。

 でも、心の中では別の感情が渦巻いている。

 彼は今、どんな表情をしているだろう。

 満面の笑みを浮かべているに違いない。チームメイトたちと抱き合い、監督から祝福を受け、寮に戻って親に電話で報告し。そして、私にも連絡をくれた。

 でも、私は彼の優先順位の中で、何番目だろう。

 一番?

 それとも、数ある「報告すべき相手」の一人?

 その疑問が、私の心を蝕んだ。

「ありがとう。でも、本戦はまだ先だし、レギュラーに入れるかも分からない。もっと頑張らないと」

 彼の声には、以前と変わらぬ真摯さがあった。

 そして、どこか独りよがりな高揚感も。

 彼は今、自分の力を信じている。「努力すれば報われる」と、純粋に信じている。大学の環境に適応し、監督の指導を受け入れ、チームメイトと協力しながら、着実に成長している。

 その純粋さが、私を苛立たせた。

「燈がいてくれたらな、って思う」

 彼が続けた。

「でも、俺一人でも頑張るよ」

 その言葉が、私の心を深く刺した。

 「いてくれたらな」

 「一人でも頑張る」

 その言葉の裏には、明確な意味が透けて見えた。

 彼は私を懐かしく思っている。高校時代の思い出として、大切に思っている。「いてくれたら嬉しい」と思っている。

 でも、それは「いなければ走れない」という絶対的な必要性ではない。

 彼の心の中で、私はまだ「いてくれたら嬉しい人」であって、「いなければ生きていけない人」ではない。

 まだ足りない。

 私の胸に、暗い感情が湧き上がった。

「鈴都、本当に良かったね。高校時代の夢が叶うんだね」

 私は優しく言った。

 でも、その言葉の裏で、別の感情が蠢いている。

 もっと苦しめばいい。

 もっと挫折すればいい。

 そして、私を本当に必要とする時が来ればいい。

「うん。でも、まだスタートラインに立っただけだから。本戦で走れなければ、意味がない」

 彼は謙虚に答えた。

 その謙虚さすらも、私を苛立たせた。

 電話を切った後、私は窓の外を見つめた。

 至志館大学のキャンパスに、秋の気配が濃く漂っていた。銀杏並木の葉が、少しずつ黄色く色づき始めている。

 学生たちは軽やかに歩き、談笑し、青春を謳歌している。

 でも、私の心は暗かった。

 予想外だった。

 離れることで、彼は私への依存を深めるはずだった。孤独な環境に置かれ、理解者がいない苦しみの中で、彼は私を求めるはずだった。

 「燈がいなければ走れない」と、心の底から思うはずだった。

 でも、現実は違う。

 彼は私がいなくても、順調に走り続けている。大学の環境に適応し、監督の指導を受け入れ、チームメイトと協力しながら、着実に成長している。

 私の計算が、狂い始めている。

 その事実が、私を焦らせた。

 私の胸に、嫉妬と焦燥と恐怖が渦巻いた。

 彼が私を必要としなくなる恐怖。

 彼が私以外の誰かを見つける恐怖。

 彼の光が、私の手の届かないところで輝き続ける恐怖。

 これでは駄目だ。

 もっと。もっと彼を追い詰めないと。

 彼が完全に私に依存するまで。彼が私なしでは何もできなくなるまで。彼の光を、完全に私の支配下に置くまで。

 私は携帯を握りしめた。

 画面には、彼からの着信履歴が表示されている。

 その名前を見つめながら、私は静かに微笑んだ。

 まだ終わっていない。

 これは、まだ始まったばかりだ。

 そして、私は確信していた。

 いずれ、彼は挫折する。

 才能のない彼が、箱根の舞台で輝き続けることはできない。いずれ、壁にぶつかる。そして、その時、彼は私を求めるだろう。

 その時を、私は待っている。

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