Crazy Crazy
大釋 空良
第1話 出会い
奥伊勢高校は、深山幽谷の趣をたたえた大台ヶ原の山々に抱かれるようにして、大台町の一角にひっそりと佇んでいる。
4月の入学式が終わった翌日、私は校舎3階の廊下の窓から、初めてこの学校の全景を眺めた。窓ガラスの向こうに広がるのは、濃淡の異なる緑が幾重にも折り重なった山並みだ。杉の人工林の暗い緑、広葉樹の柔らかな萌黄色、そしてその奥に霞む遠い稜線の青。風が吹くたび、木々は波のようにざわめき、まるで山全体が呼吸しているようだった。
教室からは、鳥の声が絶え間なく聞こえてくる。ウグイスの鳴き声が谷間に反響し、時折カラスの濁った声が混ざる。朝の霧が校舎を包んでいる間は、世界が白く溶けて、まるで宙に浮いているような錯覚さえ覚える。霧が晴れるのを待って生徒たちが登校してくる頃には、既に一日の半分が過ぎてしまったような静けさがある。
全校生徒は150人にも満たない。一学年が50人程度。都会の一クラス分にも満たない人数が、この広大な自然の中にぽつんと存在している。そのアンバランスさが、時に心地よく、時に息苦しかった。それは同様の様相を呈していた中学からの経験則だ。
私がこの高校を選んだのは、消極的な理由だった。ただ単に家が近かった。それだけであった。
中学の同級生の多くはこの辺りでは栄えている伊勢や松阪の街に出ることを選ぶのが大半であった。中学からの同級生は片手で数えられる程度で、それらの人間もそこまで深いかかわりはなかった。
ここなら、誰も私に関心を持たない。それが何よりも魅力的だった。
だから、部活動に入るつもりもなかった。
けれど、入学から一週間が経った頃、担任が「何か部活には入らないのか」としつこく聞いてきた。この学校では部活動加入が事実上の義務になっているらしい。全校生徒が少ないため、各部が最低人数を確保できないのだという。仕方なく、一番楽そうな陸上部の体験入部に申し込んだ。
中学時代にも陸上部には所属していた。短距離を少しかじった程度で、記録を追い求める情熱があったわけではない。ただ、個人競技だから人間関係が煩わしくないという理由だけで選んだのだ。勝敗やタイムよりも、放課後の空白を埋めてくれる「居場所」が欲しかった。汗を流し、無心で身体を動かす時間が、どこか心を落ち着かせてくれる。考えなくて済む時間。それだけが必要だった。
体験入部は、4月の終わり、校庭の桜がすっかり葉桜に変わった頃に行われた。
その日、グラウンドに集まった新入生は5人ほどだった。何となく、仕方なく来たという表情をしている。決して私には真剣に陸上をやる気があるようには見えなかった。
私は端の方で、適当にストレッチをしながら、集まった面々を観察していた。誰も彼も、どこか緩んでいる。この学校の陸上部が強豪でないことは知っていたが、ここまで緊張感がないとは思わなかった。これなら本当に、適当に時間を潰すだけの場所として使えるだろう。そう考えていた。
だが、その中に一人だけ、明らかに異質な存在がいた。
その彼は、グラウンドの隅で一人、黙々とストレッチをしていた。
遠目にも分かるほど背は高く、170cmは優に超えているように見えた。しかし体格は細身で、肩や胸に厚みはない。体操服の袖から覗く腕は、骨と筋だけで構成されているようだった。短距離や投てき種目の選手にありがちな力強さとは異なり、無駄を削ぎ落としたような身体つき。陸上競技に当てはめるなら、長距離向き。そんな印象が自然と浮かんだ。
だが、私の注意を引いたのは体格だけではなかった。
彼の動作どれにもに意図があった。ストレッチ全てが、教科書通りに正確で、丁寧だった。
ラジオ体操を何となくやっている他の新入生が適当に身体を揺らしているように見えるのとは対照的に、彼は筋肉の伸びを確かめるように、呼吸を整えながら動いていた。まるで、ウォーミングアップそのものが既に競技の一部であるかのように。
その姿勢に、私は妙な違和感を覚えた。
周囲の緩んだ空気とあまりにも不釣り合いであった。まるで、一人だけ別の時間を生きているかのようだった。
顧問が現れたのは、その数分後だった。
定年も近いのだろうと誰もが察する白髪混じりの男性で、どこか浮ついた様子のまま説明会を進めていく。語り口は淡々としていて、熱血指導とは程遠い。強豪校にありがちな厳しさも、上を目指す気迫も、そこには感じられなかった。
「まあ、うちの陸上部は基本的に自主練習が中心です。県大会に出る人もいれば、健康のために走る人もいる。それぞれの目標に合わせて、自分で練習メニューを組んでもらえればいいと思います」
顧問の言葉に、周囲の新入生はほっとしたような表情を浮かべた。厳しい練習を強いられることはないと分かって、安心したのだろう。私もまた、内心で安堵していた。これなら、本当に楽に過ごせる。
だが、その緩んだ空気を、彼が切り裂いた。
説明が一通り終わり、顧問が形式的に「何か質問はありますか」と口にした、その瞬間だった。
彼は、真っ先に手を挙げた。
その動作は、迷いがなかった。周囲の空気など、まるで存在しないかのように。
顧問が少し驚いたような顔で彼を指した。
彼は立ち上がった。背筋が真っ直ぐに伸びている。その立ち姿だけで、周囲との違いが際立った。
「僕は長距離選手を目指しています」
その声は、静かだったが、確固とした響きがあった。
「この学校で、どこまで速くなれますか」
一瞬、時間が止まったような気がした。
周囲の新入生たちが、きょとんとした表情で彼を見つめる。顧問は、明らかに困惑した顔をした。誰もが、その質問の異質さに気づいていた。
だが、彼は平然としていた。
私は、その横顔をじっと見つめていた。
親しみのある垂れ目に、決して高くはない鼻。どこにでもいそうな顔立ちのはずなのに、そのときの彼は別人のようだった。柔和だったはずの表情は引き締まり、まっすぐ前を見据えた瞳には、一切の迷いがなかった。
その瞳には、純粋な輝きがあった。
曇りひとつない、透明な光。
それは私がこれまで見たことのない種類の光だった。まるで研ぎ澄まされた刃のように、ただ一つのことだけを映し出している目。
雑念も、疑念も、迷いも、何もない。ただ、「速くなりたい」という無垢な欲求だけが、そこに凝縮されていた。
私の心臓が、大きく跳ねた。
顧問は、数秒の沈黙の後、曖昧な笑みを浮かべた。
「それは君次第だよ。うちは設備も整っているわけじゃないし、強豪校のような指導もできない。でも、本気で走りたいなら、その気持ちは大切にしてほしいね」
言葉は当たり障りがなく、期待を持たせることも、打ち砕くこともない。当たり障りのない取るに足らないような発言だ。
けれど、彼はそれで満足したようだった。
小さく頷き、目を細めて、まるで自分の中で答えを見つけたかのような穏やかな表情を浮かべた。そして、先ほどまでのように地べたへ静かに座った。
その一連の動作を、私は一瞬も目を離さずに見つめていた。
何だろう、この感覚は。
胸の奥が、ざわざわと波立っている。心臓の鼓動が速くなり、喉が渇く。まるで、何か大切なものを見つけたような、あるいは、何か危険なものに触れてしまったような。
彼の瞳に宿っていた光。あの純粋な輝き。
それは、私が持っていないものだった。
私には、あんな風に何かを信じる力がない。何かに夢中になる情熱もない。ただ、日々をやり過ごすことしかできない。誰にも期待されず、誰も期待せず、ただ静かに時間が過ぎていくのを待つだけ。
だが、彼は違う。
彼は、この辺鄙な山奥の高校から、本気で何かを目指そうとしている。誰も注目しない場所で、誰にも理解されなくても、ただ一人で前を向いている。
その姿が、眩しすぎた。
同時に、暗い感情が湧き上がってきた。
この光を、誰にも渡したくない。
この純粋さを、私だけのものにしたい。
この男を、自分の手の内に納めたい。
この光の行く末を、誰よりも近くで見届けたい。
そして、いつかこの光が砕け散る瞬間を、この目で見たい。
その欲望は、自分でも驚くほど明確に、私の中で形を成した。
これは恋愛感情ではない。慕情でもない。もっと暗く、もっと深い。彼を所有したいという、醜悪な執着。
だが、それを自覚した瞬間、私の中で何かが決まった。
私は、この男の傍にいる。
どんな形であれ、彼の光を追い続ける。
入部してからの日々は、思っていた以上に穏やかだった。
奥伊勢高校の陸上部は、全体で15人ほどしかいない。そして、その15人も大半が幽霊部員と化している。週に一度顔を出せばいい方で、中には名前だけ登録して一度も来ない者もいる。毎日練習に来るのは、私と、あの体験入部の日に並々ならぬ情熱を見せた彼、大西鈴都の二人だけだった。
練習メニューは各自の裁量に任されている部分が大きい。顧問は最低限陸上部顧問の名目を果たすため。時折グラウンドを見回るだけであり、細かい指示を出すことはほとんどなかった。
それが功を奏して、私はゆるゆると陸上を楽しめる範囲の緩やかな練習しかしなかった。軽くジョギングをして、ストレッチをして、たまに短距離を数本走る程度。記録を測ることもほとんどない。ただ、身体を動かして、汗を流して、それで満足だった。
だが、彼は違った。
彼は、誰に強制されるでもなく、ただ黙々と走り続けた。
朝練には必ず参加し、始業前に既に5kmは走り込んでいる。授業が終わると、誰よりも早く着替えてグラウンドに現れる。そして、陽が完全に沈むまで、走り続ける。
彼の練習は、見ているだけで息苦しくなるほどストイックだった。
インターバル走、ビルドアップ走、ペース走。彼は一人で、計画的に、様々なメニューをこなしていく。雨の日には体育館でひたすら筋力トレーニングに取り組み、晴れた日には校外の山道を走る。その姿は求道者のようで、見ているこちらまで背筋が伸びるような緊張感があった。
私は、彼を観察することに、異常なまでの執着を覚えるようになっていた。
練習中、私は常に彼の動きを視界の端に捉えていた。彼が何本走ったか、どれくらいのペースで走っているか、呼吸がどう乱れているか。すべてを記憶した。
彼の走るフォームは、美しかった。
無駄な動きが一切ない。腕の振り、足の運び、体幹の使い方。すべてが流れるように滑らかで、まるで機械のように正確だった。だが、機械的な冷たさはなく、むしろ生き物のような躍動感があった。
特に印象的だったのは、彼の表情だった。
走っている間、彼の顔には苦痛の色が浮かぶことはなかった。もちろん、息は上がるし、汗も滲む。だが、その表情には、どこか満ち足りたものがあった。まるで、走ること自体が彼にとっての報酬であるかのように。
私は、その表情を見るたび、胸の奥が疼いた。
羨望と嫉妬と、そして所有欲。
彼のその純粋さを、誰にも渡したくない。
彼のその光を、私だけのものにしたい。
そう改めて色濃く思ったのだ。
彼との最初のまともな会話は、入部から一ヶ月が経った立夏の頃だった。
大台町特産である伊勢茶の一番茶の収穫がひと段落した時期で、山の緑は一層濃さを増していた。夕方になると、茶畑から独特の香りが風に乗って流れてくる。少し苦くて少し甘い、あの特有の香り。
その日、私は彼がインターバル走を終えるのを待っていた。
彼は10本目のラストスパートを終え、ゆっくりとペースを落としてクールダウンに入った。呼吸は荒いが、足取りはしっかりしている。汗で濡れたシャツが背中に張り付き、首筋に汗の粒が光っている。
私は、彼がストレッチを始めるタイミングを見計らって声をかけた。
「大西君、ちょっといいかな」
競技者にとって、自分のタイミングを崩されることは気分を害することにつながる。だから、慎重に、彼のリズムを乱さないように心がけた。そんな声掛けに彼は顔を上げた。
「ああ、水谷さん……だっけ?」
息を整えながら、少し照れくさそうに笑った。
私たち2人は、入部から1ヶ月経っているにもかかわらず、まともに会話をしたことがなかった。同じ部活でありながら、ほとんど言葉を交わしていない。それは、、彼が自分の練習に集中し、私が彼を観察することに集中していたからだ。
「うん。大西君、いつも本当にすごい練習してるよね」
私がそう言うと、彼は少し驚いたような顔をして、それから嬉しそうに目を細めた。
「見ててくれたんだ。ありがとう」
その反応が、妙に子供っぽくて、私は少し意外な気がした。あれほどストイックに練習している彼が、こんな風に素直に喜ぶとは思わなかった。
「あのさ、大西君は……何か目標とかあるの? 長距離選手になりたいって言ってたけど」
これが、私の一番聞きたかったことだ。
彼の瞳の奥にある光のエネルギーは、どこから来るのか。何が、彼をあそこまで駆り立てているのか。その光に惹かれた者として、どうしても知りたかった。
私の問いかけに、彼の表情が一変した。
柔和だった顔が引き締まる。あの体験入部の日に見せた、あの純粋な輝きが、再び瞳に宿った。
「箱根駅伝に出たいんだ」
その言葉は、静かだが、確信に満ちていた。
「箱根駅伝?」
私は、その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「うん。テレビで見たことある? 正月に、東京から箱根まで往復する大学駅伝。あれに出場して、できれば花の2区を走りたい。そして将来は、マラソンランナーとして日本代表を目指したい」
彼は真っ直ぐに私を見つめながら語った。
夢物語を語るような浮ついた調子ではない。まるで既に決まった未来を淡々と説明しているかのような、揺るぎない口調だった。
「……この高校から?」
私は思わず聞き返していた。
失礼だとは思ったが、あまりに現実離れした目標に聞こえたのだ。全校生徒150人にも満たない山奥の高校。陸上部は弱小で、県大会に出場する選手さえ稀だ。そんな場所から、全国の強豪が集う箱根駅伝へ。その道のりは、想像を絶するほど険しいはずだ。
だが、彼は微塵も動じなかった。
「中学時代も一生懸命練習したけど、結果は出なかった。強豪校からのスカウトもなかった。だから、地元のここに進学したんだ」
そう過去を淡々と語るが、その声には僅かに悔しさが滲んでいた。
きっと中学時代も、今のようにひたすら練習を重ねたのだろう。それでも、思うような成績を残すことができなかった。その悔しさが、彼の中で燻り続けている。
「ここが環境の整った場所じゃないことは分かってる。指導者もいないし、設備も古い。でも、だからこそ這い上がる価値があると思うんだ。誰も注目しないような場所から、誰もが驚くような場所へ。それが、僕の走る理由になる」
彼の言葉には、一点の曇りもなかった。
それは、自己暗示でも、強がりでもない。心の底から信じている、純粋な信念だった。
その瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
体験入部の日に感じたあの感情が、さらに強く、深く、私の胸を締め付ける。彼の純粋さ、彼の情熱、彼の揺るぎない信念。それらすべてが眩しすぎて、同時に暗い欲望が改めて去来する。
この光を、誰にも渡したくない。
この人を、私だけのものにしたい。
そしていつか、この光が挫折する瞬間を、この目で見たい。
「……大西君」
私は、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「私、協力したい。大西君の夢に」
「え?」
彼は目を丸くした。予想外の申し出だったのだろう。
「私は大西君みたいに速く走れないし、記録を目指すような才能も気持ちもない。でも、大西君を支えることならできるかもしれない。練習メニューの管理とか、記録の分析とか……そういうことなら、私にもできると思う」
言いながら、自分でも不思議なほど言葉が流れ出てくることに驚いた。まるで以前から考えていたかのように、具体的なイメージが次々と浮かんでくる。
「専属マネージャーみたいな感じで、大西君を全力でサポートしたい。どうかな?」
彼はしばらく黙って私を見つめていた。
その視線に、何か試されているような気がして、私は思わず息を詰めた。
彼の瞳は、相変わらず透明だった。疑念も、警戒も、そこには何もない。ただ、純粋に私の言葉を受け止めようとしている。
やがて、彼はゆっくりと笑顔を浮かべた。
「……ありがとう、水谷さん。本当に嬉しい。でも、なんでそこまで? 僕たち、まだそんなに話したこともないのに」
その問いに、私は一瞬だけ言葉に詰まった。
本当のことは言えない。
彼の光を独占したいから。彼の純粋さを私だけのものにしたいから。そして、いつかその光が砕ける瞬間を見届けたいから。
そんなことは、口にできるはずがない。
「理由は……うまく説明できない。でも、大西君の走る姿を見てると、何か……心が動かされるんだ。その夢を叶えるところを、一番近くで見届けたいって思う」
それは、半分は真実だった。
ただし、それは外向きのきれいごとを並べたに過ぎない。私の中にある暗い部分は、巧妙に隠されている。
彼は少し考え込むように視線を落とし、それから再び顔を上げた。
「分かった。お願いしてもいいかな、水谷さん。一緒に、箱根を目指そう」
その言葉に、私の中で何かが確定した。
これから私は、彼の傍らを歩き続ける。
彼の夢を支え、彼の光を誰よりも近くで見つめ続ける。
そしていつか、その光を完全に自分のものにする。
立夏の夕暮れ、奥伊勢の山々に囲まれたグラウンドで、私たちの奇妙な同盟が結ばれた。
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