第23話 赦し

その後、ミカと西村姉妹はあかりが目を覚ますのをそのまま病院で待つことになり、俺は仕事があるから、と帰ることになった。


西村姉妹が珍しく肩を落とし、元気のない様子で言う。


「私たちは電車で帰れるから大丈夫。佐藤さんは仕事頑張って!」


十二月の風がビルの谷間を冷たく吹き抜ける。

東條憲一の会社が入っているビルの屋上。

俺はでっかいエアコンの室外機の陰に身を潜め、灰皿の置かれた狭い喫煙所を睨んでいた。


どす黒い後悔の念が胸の奥で渦を巻いている。


……俺のせいだ。

俺が尾行されていたことに気づかなかったせいで、あかりはあの夜、父の刃物を浴びせられた。


もう二度と繰り返さない。

俺が終わらせてやる。


ポケットの中の古いナイフを確かめる。

昔、ワルをやってた頃いつも胸に忍ばせていたやつ。

柄を握る手が汗で湿る。

このひりつく感覚久しぶりだ……。


足音がした。


東條憲一が、ゆっくりと喫煙所に入ってきた。

スーツはいつもの濃紺だが、首筋から頰にかけて赤い火傷の痕が残っている。

豚汁の熱でできたあの夜の証。


俺は、室外機の陰から出た。

憲一は、俺の気配に気づいたが、何食わぬ顔でタバコに火をつけた。


「おう、便利屋。どうしたこんなとこまで」


低い疲れた声。

でも目は笑っていない。


俺は室外機の陰からゆっくりと出て憲一の前に立った。


「……東條さん」


憲一は煙を吐きながら、

「どうした、そんな顔して。

 娘は見つかったのか?」

と言った。


俺は拳を握りしめた。


「火傷の痕……痛みますか?」


憲一の指が、一瞬、タバコを強くつまんだ。


「何の話だ」


「館林の夜。

 あかりを刺そうとした夜だ」


憲一の目が鋭く細まる。


「何言ってんだ?」


のらりくらり。

いつものやつの顔。


怒りがさらに湧き上がってくる。

俺は胸ポケットに手を入れ、ナイフの柄を握った。


「美津子さんのことも、知らないって言うんですか?

 助けられた命をわざと手放したことも」


憲一の顔が初めて歪んだ。


「……便利屋、お前……どこまで知ってる」


「全部だ。俺は病院の記録を見た」


俺はナイフを抜いた。

古びた刃が街灯の下で鈍く光る。


「あの人たちの輪は、やっと見つけた俺の居場所だった。

それをお前はぶち壊した。

だから今日はお前を終わらせてやる」


憲一は一歩も引かず、ただ疲れた目で俺を見た。


「は!やってみろ。

 どっちみち、俺はもう終わりだ!」


その瞬間。


「ダメ!!」


突然の叫び声。


横から飛び込んできたのはあかりだった。


彼女は両手を広げて俺と憲一の間に立ちはだかった。


「やめて!!佐藤さん!!」


俺は、凍りついた。


「あかり……さん?どうしてここに……」


あかりの目は涙で潤んでいる。

でも揺るぎない光を宿していた。

屋上に入る扉の前に佐伯ミカの姿も見える。


あかりが言う。

「イエスは、『つるぎをさやに納めなさい』って仰ったわ。

 『つるぎを取る者はみな、つるぎで滅びる』って。

 あなただって、聖書を勉強してるんでしょ?」


その言葉に俺の手が震えた。


ナイフが力なく床に落ちた。


カラン。


金属の音が静かな喫煙所に響く。


「ああ俺は……何てことを……」


俺は膝から崩れ落ちた。


憲一は信じられないという目で娘を見つめていた。


「あかり……お前……」


あかりは、ゆっくりと父に向き直った。


「お父さん……

 私、全部分かってる。

 お父さんがお母さんの信仰のことと、会社の経営のために苦しんでたこと…… 」

憲一の顔が初めて崩れた。


「俺は……美津子を……お前の母さんを殺した。

 お前まで刺そうとしたんだぞ。

 そんな俺を……庇うっていうのか?」


涙が憲一の火傷の痕を伝う。


あかりは震える声で、でも確かに言った。


「お父さん……お願い。

 自首して。

 お母さんのために……

 私のために……

 そして、お父さん自身のために」


あかりは小さな赤い聖書を抱えていた。

憲一がそれを見つめる。


「それは美津子がいつも読んでいた……」


憲一の肩が、がくんと落ちた。


「……ああ」


低い、掠れた声。


あかりは一歩近づき、ゆっくりと父を抱きしめた。


憲一の体が小さく震え始めた。


俺は地面に落ちたナイフを見つめ、ただ静かに目を閉じた。


すべてが終わろうとしていた。

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