第19話 潜入と確信
伊香保旅行の数日後、俺は東條美津子が亡くなった病院に来ていた。
夜の病院は、昼間の喧騒が嘘みたいに静まり返っていた。
俺は作業服の上に、便利屋のツテで知り合った、この病院の清掃業者から借りたIDをぶら下げていた。
あいつは前にちょっと助けてやったことがあって、今回はその恩返しってわけだ。
裏口からそっと中に入る。
手にはモップとバケツ。けど、目的は掃除じゃない。
「記録保管室は地下の管理フロア……」
事前に手に入れた病院のフロアマップは、頭に叩き込んである。
深夜の清掃スケジュールに紛れて動ける時間は、せいぜい30分ってとこだ。
廊下の監視カメラを避けながら、俺は静かに階段を降りた。
地下の空気はひんやりしてて、どこか埃っぽい。
突き当たりの鉄扉に「記録保管室」と書かれていた。
「……ここだな」
清掃係の合鍵を使って鍵を開ける。
中に入ると金属製のキャビネットがずらりと並んでいた。
俺は手袋をはめて棚のラベルを目で追っていく。
――「T」……「Tojo, Mitsuko」
引き出しを開けると厚みのあるファイルが出てきた。
俺は手早くページをめくる。
検査結果、診断書、面談記録……そしてあった。
思わず目を見張った。
> 「Dr. 立花、無輸血下での早期手術を提案。
> 家族(夫・東條憲一)は『HLCの判断を優先したい』と主張。
> 手術の延期を希望。HLCとの調整に数日を要する見込み?」
さらに数ページ後――
> 「HLCの医師探しは難航。
> その間、患者の容体が急変。」
「……無輸血で手術、できたんじゃねえか……」
ページの端に、さらに書き込みがあった。
> 「Dr.立花、さらに早期手術を進言するも、夫が強く反対。
> 『信仰の問題に口を出すな』と語気を強める。」
俺はスマホで必要なページを撮影した。
証拠は揃った。
東條憲一は、助けられるはずだった妻の治療を「信仰を尊重する」って建前で意図的に遅らせた。
その結果美津子さんは死んだ。
……そして、その代わりに奴の会社は生き延びた。
実に巧妙な犯罪じゃないか?
「……あんた最初から殺す気だったんだな」
俺はファイルを元に戻して、静かに倉庫から出た。
そのとき廊下の奥で足音がした。
誰かがこっちに向かってくる。
俺はモップを手に取り何食わぬ顔で廊下を拭き始めた。
白衣の男が通り過ぎる。
目が合ったけど、ちょっと頷いただけで、何も言わずに去っていった。
「……ふぅ」
汗を拭いながら俺は階段を上がった。
地上に出たとき夜風が妙に生温かく感じられた。
「東條……あんたの嘘、もうすぐ暴いてやる」
ポケットの中でスマホが静かに光っていた。
それから数日が経った。
あのカルテを見た夜、俺は眠れなかった。
東條憲一が何をしたのかもう疑いようがなかった。
助けられるはずだった妻を見殺しにした。
それを「信仰」なんて言葉で包んで、誰にも気づかれないように処理してやがった。
自分はその信仰を露ほども持っていないくせに。
あかりはそれを知った?
だから逃げた?
父親から、過去から、そしてたぶん、自分の中の怒りからも。
でも、もう逃げなくていい。
東條憲一を追い詰めるための証拠がある。
あかりさんを探す目的はすでに変わっていた。
あかりさんを見つけて答え合わせをしたい。
「あんたは間違ってなかった」って。
「あんたの父親は、やっぱり――」って。
問題はどこにいるかだ。
以前の伊香保旅行の時の失敗で新たな知見を得た。
エホバの証人の組織は、信者の保護には異様なほど手厚い。
特に家庭内で迫害を受けた信者には、別の会衆への「移籍」や「保護」が行われることがあるらしい。
あかりは今も信仰に熱心で、どこかの王国会館に通っている筈――それだけが唯一の手がかりだった。
あかりのSNSアカウントはきれいさっぱり消えていた。
Instagramも、Xも、LINEも。
まるで最初から存在しなかったみたいに跡形もない。
だが俺は諦めが悪い。
ネットの世界に「完全な削除」なんてものは存在しない。
――どこかに痕跡は残る。
俺は深夜のファミレスでノートPCにかじりついていた。
カフェインで胃が焼けそうだが、そんなことはどうでもいい。
ミカちゃんから、あかりさんから最後に届いたという写真を転送してもらった。
元気だから心配しないで、という一言が添えられた最後の写真。
画質は荒い。
でも、そこに写っていたのは間違いなくあかりだった。
マスクをしていたが目元の印象は本人そのもの。
目を皿のようにして写真を眺める。
「……あった。手がかりだ」
彼女の背後に小さく何かが写っていた。
看板だ。
「○○クリーニング ××店」
――しかし文字の一部が潰れてしまっている。
画像はまるで埃をかぶったように荒れていた。
あかりの背後にある看板の文字は、光の反射と圧縮ノイズで潰れていて判別不能に見えた。
だが俺は諦めなかった。
「……Photoshop、起動っと」
ノートPCのファンが唸りを上げる。
画像を読み込み、コントラストを上げ、シャドウを持ち上げ、色調を反転させる。
潰れた文字の輪郭がわずかに浮かび上がってきた。
「……館……?」
さらにフィルターを重ねノイズを除去する。
看板の右端にかすかに見える縦線と文字の断片。
俺は指でなぞった。
「……館、林、か」
確信が走った。
「○○クリーニング 館林店」――最後は勘だが「館林」の二文字がかろうじて読み取れた。
「やっぱり……北関東か」
俺は椅子から立ち上がり、壁の地図を見上げた。
群馬県館林市。あかりの家から2時間弱。
身を隠すにはちょうどいい距離だ。
「見つけたぞ、あかりさん」
次に行くべき場所は、決まった。
「今度は、見つける」
俺はPCを閉じ、冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
夜明け前の空がほんの少しだけ白んでいた。
そして、俺を見張っている存在にその時は気付いていなかった。
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