第18話 母の死の疑惑
母の追悼式を終えたばかりのあかりは、バタバタして出来ていなかった母美津子の退院手続きを済ませようと病院を訪れていた。
退院手続きを待っているときに、背後から、低い声で呼び止められた。
「……君は東條美津子さんの娘さんだね?」
振り返ると白衣姿の男が立っていた。
四十代半ば、鋭い目をしているがどこか疲れたような顔。
名札には「Dr.立花」と書かれていた。
「はい……」
あかりは小さく答えた。
胸の奥がざわつく。
二人は人影のない、あまり使われていない談話コーナーに座った。
医師は一瞬ためらい、そして深く息を吐いた。
「突然すまない。私は……君のお母さんを助けられる可能性があった。無輸血での手術を準備していたんだ。」
あかりの目が大きく見開かれる。
「……助けられた?」
「そうだ。病状はまだ間に合った。だが――」
医師は苦しそうに眉を寄せた。
「私は最近アメリカから帰って来たんだよ。
アメリカではエホバの証人の無輸血手術が盛んにおこなわれている。私はそんな国で手術の技術を学んでいたんだ。
エホバの証人のあなたなら良く知っていると思うが、日本では輸血は命を救う万能薬のように言われている。
しかし輸血にはリスクも確かにある。
それが出来るなら輸血なんて避けるに越したことはないんだ。
それに無輸血手術は術後の回復も早い。
エホバの証人の皆さんのおかげで無輸血手術の技術が向上して、アメリカではエホバの証人に感謝してるくらいなんだ……
あの時、私はこの病院に来たばかりだった。
しかしエホバの証人の方の手術のことで揉めていると聞いて、いても立ってもいられなかった。
そこで憲一さんに、わたしなら奥さんを無輸血で手術できると申し出たんだ。
でも、お父さんが強く言った。
『妻の意思を尊重して、HLC(エホバの証人の医療機関連絡委員会)に任せたい』と。だから私はそれ以上踏み込めなかった。」
廊下の蛍光灯が、妙に冷たく光っていた。
あかりの心臓が、どくん、と音を立てる。
「……父が、止めた?」
声が震えた。
医師は静かに頷いた。
「そうなんだ。
私はもとより信仰を尊重するつもりだった。だが、あの拒絶は……何か違和感があった。まるでわざと……」
医師の立花は言葉を宙に漂わせた。
あかりの視界が揺れる。 母の笑顔、病室の匂い、父の冷たい横顔――すべてが一瞬で繋がった。
「……そんな……」
唇が震えて言葉にならない。
医師は申し訳なさそうに目を伏せた。
「真実を伝えるべきか迷った。でも君には知る権利があると思った。」
あかりは壁に手をつき必死に呼吸を整えた。
あの時 父が「美津子の意思を尊重した」と言った言葉が、頭の中で何度も反響する。
だが、それは――母を守るためではなく、母の信仰を利用して殺すための方便だった?
でもまさかそこまで……?
廊下の奥で誰かがストレッチャーを押す音が響いた。
あかりはその音に背を押されるように目を閉じた。
「……許せない。」
その呟きは誰にも届かなかった。
ただ、冷たい蛍光灯の下であかりの心に深く刻まれた。
そのしばらく後。
東條家の居間の空気は重く、時計の針の音だけが響いていた。
あかりは震える声で父を追求した。
「……お母さんは助けられた。
立花先生はそう言ってたわ。
なのに……どうして手術を止めたの?」
憲一はソファに深く腰を下ろし、煙草に火をつけようとした。だが、ライターの火は揺れ、なかなか着かない。
「……美津子の意思を尊重した。それだけだ。」
「嘘よ。」
あかりの声が鋭くなった。
「……保険金のためだったんでしょう?」
その瞬間、憲一の手が止まった。火のついていない煙草が床に落ちる。
ゆっくりと顔を上げた憲一の目は、氷のように冷たかった。
「……誰に聞いた?」
低い声が居間に響く。
あかりは一歩後ずさった。背中が壁にぶつかる。
「……誰だってすぐに気付くよ。あの後、急に会社の経営はうまくいくようになった……」
憲一の口元が歪んだ。
「そうか。全部バレちまったんだな。」
彼は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。
足音が床板を軋ませる。
憲一の目は見開き、焦点の合わない目であかりを見つめる。
「お前が口を開けば、俺は終わりだ。会社も、名誉も、全部失う。」
あかりの心臓が激しく打ち、呼吸が浅くなる。
あかりは父親の目に狂気を見た。
「……お父さん……やめて……
罪を告白して償うべきだよ」
憲一の手が伸びる。大きな影があかりを覆う。
「……仕方ない。お前も道連れだ」
その瞬間、あかりは必死に横へ身を翻した。
テーブルの角に足をぶつけながらも玄関へ走る。
背後で憲一の声が低く響いた。
「逃げても無駄だ、あかり。必ず見つけるぞ」
ドアノブを掴む手が震える。
外の冷たい夜風が吹き込む。
あかりは振り返らず外の闇の中へ飛び出した。
父の影が、居間の灯りの中でゆっくりと伸びていた。
その目には、もはや父親の温もりはなく、ただ追い詰められた獣の光だけが宿っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます