第17話 悪魔の囁き
東條憲一は、事務所のデスクに肘をつき目を閉じた。
窓から差し込む午後の陽光が、埃の粒子を浮かび上がらせ、部屋をぼんやりと照らしていた。
あの日の病院での、美津子の顔が浮かぶ。
あの柔らかな笑みと、静かな瞳。
――病院の診察室。
白い壁に囲まれた狭い部屋で、医師はパソコンを見ながら穏やかに言った。
「奥さんの病状ですが、手術をすればほぼ回復の見込みがあります。
子宮がんのステージはまだ初期で、切除すれば問題ないでしょう。」
美津子は小さく息を吐いた。
その顔に安堵の色が広がる。
「ありがとうございます、先生。
本当に……良かったわね、憲一さん」
東條憲一は美津子の手を握った。
その瞬間、心の中で渦巻いていた悪魔の囁き――保険金、3億円、借金の山――が、一瞬静まった。
美津子の命が救われる。
それでいい。
会社なんて所詮、人生の一部でしかない。
その後、東條憲一は金策に奔走した。
借金の返済期限が迫る中、銀行を回り、知り合いに頭を下げ、会社を立て直すための資金を掻き集めようとした。
だが、空回りばかりだった。
融資は断られ、投資話は泡のように消え、夜ごと、ウイスキーのグラスを傾けながら、
「どうして俺だけが……」と呟くしかなかった。
死ぬような思いをして、やっと僅かな資金を掻き集めて、ようやく返済期限を伸ばしてもらう。
そして、再びの診察日。
医師の顔は前回とは打って変わって曇っていた。
「実は……
詳細な検査の結果ですが、がんの進行が予想より速いようです。
手術は難しいものになり、リスクが高くなります。
そして、深刻な問題ですが……
当院には、無輸血でこの手術をこなせる医師はいません。
輸血を受け入れて下さらない場合、手術をお受けすることはできません」
美津子は目を見開いたがすぐに落ち着きを取り戻した。
その瞳には静かな決意が宿っていた。
東條憲一は椅子から飛び上がりそうになった。
「手術できないって、どういうことだ!
前に回復するって言ったじゃないか!」
医師は静かに首を振る。
「状況が変わったんです。
申し訳ありませんが……」
美津子が東條憲一の腕を優しく握った。
「憲一さん、落ち着いて。
大丈夫よ。
私たちの組織には、HLC-医療機関連絡委員会という組織があるわ。
エホバの証人の信者のために、無輸血手術の専門家を紹介してくれるの。
きっと、適切な先生が見つかるはずよ」
HLC――医療機関連絡委員会。
美津子がいつも話していた。
エホバの証人の組織。
信者の医療問題をサポートするネットワークで、世界中の病院と連携し、無輸血で手術可能な医師を探し、時には代替治療法を提案する。
美津子は、信者を守っているその存在に何度も感謝していた。
しかし、担当医師は首を振っていた。
「おそらく、このような手術を無輸血で出来る医師は、日本中探しても見つからないのでは……」
その言葉を聞いて、東條憲一の心の中であの悪魔の囁きが再び蠢き始めた。
――手術できない?
――まさか……。
美津子の命が、保険金の鍵になる。
喉から手が出るほど欲しい……。
3億円。
借金の山を一掃し会社を蘇らせる。
いやそんな馬鹿な。
だが、心の声は止まない。
止まないのだ。
美津子は東條憲一の顔を見て優しく微笑んだ。
「大丈夫。エホバが守ってくださるわ。
信じましょう、憲一さん」
東條憲一は頷くしかなかった。
だが、心の底であの囁きは静かにしかし確実に根を張り始めていた。
数週間後。
病室の窓から夕方の光が斜めに差し込んでいた。
白いカーテンが風に揺れるたび消毒液の匂いがかすかに漂う。
ベッドに横たわる美津子は細い呼吸を繰り返していた。
その胸の上下が今にも止まりそうに見える。
あかりは母の手を握りしめ必死に声をかける。
「お母さん……大丈夫だよ。きっと助かるから……」
だが、返ってくるのは弱々しいまばたきだけだった。
ドアの外では、ある医師と憲一が低い声で話している。
その医師が言う。
「今ならまだ間に合います。私なら無輸血で手術できます。どうか――」
医師の声は切迫していた。
しかし憲一は……。
腕を組んだまま首を横に振った。
「……妻の意思を尊重したい。HLCに任せるべきだ。」
その言葉に医師は唇を噛み、やがて沈黙した。
廊下に重い空気が流れる。
しかしそれからさらに数週間。
HLCの無輸血で手術をしてくれる医師探しは難航し、その間に美津子の病状は進んだ。
病室の中であかりは母の手をさらに強く握った。
「お母さん……!」
美津子の唇がわずかに動いた。
「……あかり……わたしは大丈夫よ。私はエホバに忠実に歩んだ。……だからあなたもエホバに……従って……ね」
その声は風に消えるように小さかった。
次の瞬間モニターの音が途切れ細い線が水平に伸びた。
あかりの叫びが病室に響く。
「いやだ……いやだよ!」
憲一がゆっくりと入ってきた。
その顔には悲しみの影が浮かんでいたがどこか冷たい硬さもあった。
彼はベッドの脇に立ち静かに目を閉じる。
「……俺は……美津子の意思を尊重したんだ。」
その言葉は、あかりの耳には氷の刃のように突き刺さった。
母の死の瞬間に父の声だけが妙に鮮明に残った。
あかりは涙に濡れた顔で父を見上げた。
その瞳には悲しみと同時に言葉にできない思いが芽生えていた。
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