第16話 伊香保旅行

ある日の午後。

狭いアパートの部屋で、机に散らばった書類をぼんやり眺めていた俺のスマホが震えた。

画面には「西村姉妹」の文字が浮かんでいる。


「佐藤さん、ちょっとい~い?」


いつもの明るさに包まれた声だったが、わずかに緊張の色が混じっていた。


「知り合いの姉妹から聞いたんだけどね。群馬の伊香保会衆に、最近、若い姉妹が一人で転入してきたんだって。

 二十代前半で、髪は肩にかかるくらい……あかりちゃんにちょっと似てるかも」


俺は思わず息を呑んだ。


「でも、名前までは聞かなかったの。詳しく聞き出そうとすると、怪しまれるでしょう?

 だから、『紅葉を見に群馬へドライブがてら、近くの会衆を訪問したい』ってことにしましょう。

 他の会衆を訪ねるのは、私たちにとってごく普通のことだし」


なるほど、と俺は頷いた。確かに自然な口実だ。


「明日の朝、迎えに行きます」


翌朝。

俺の古びた軽バンは、助手席に西村姉妹、後部座席にミカを乗せて首都高を抜け、関越道へと走っていた。


西村姉妹は膝の上に大きな紙袋を抱え、まるで遠足に付き添う母親のような顔で袋を開ける。


「はい、佐藤さんどうぞ。会衆の姉妹が焼いてくれたクッキーですよ」


「運転中なんで……」


「じゃあ、私が食べさせてあげますね」


にこにこと笑いながら、クッキーを俺の口元へ差し出す。


「いやいやいや!さすがにそれは!」


「や~ね~、冗談よ。はい!」


西村姉妹は俺の手にクッキーを押し付けた。


後部座席ではミカが

「私もおやつ食べよ〜!」


ミカがポテトチップスの袋を勢いよく開けると、車内はたちまちクッキーの甘い香りとポテチの塩気の匂いに満ちた。


やがてミカが小さな声で歌い始める。


「♪神の王国が 近づいたから……♪」


西村姉妹がすぐにハモり、二人の声が重なった。

軽バンという小さな箱の中が、まるで即席の聖堂のように響きに包まれる。


–さすがにいつも集会で歌ってるだけあって、うまいよな~。


俺はまだ一緒に歌うことはできなかったが、旋律だけは不思議と胸の奥に染み込んでいった。


サービスエリアに寄ると、ミカがソフトクリームを買ってきた。

はしゃぐあまり、手元が狂ってソフトクリームが思い切りほっぺたにくっついた。


「きゃっ!」


俺は反射的にハンカチを取り、そっと拭いてやった。

ミカは頬をほんのり染めてかすかに笑った。


「……ありがとう、佐藤さん」


西村姉妹は横で「あらあら」と微笑みながら、少し呆れたような顔をしていた。


山のふもとに小さな公民館のような王国会館があった。

木の香りが漂う素朴で温かみのある建物だ。


三十人ほどの兄弟姉妹が、穏やかな笑顔で迎えてくれる。

講演が終わると、挨拶回りが始まった。


西村姉妹は、さりげなくしかし確実に聞き出していく。


「最近、若い姉妹が転入してきたと伺ったんですが……」


「ああ、あちらの席の子ですよ」


案内されたのは、二十歳そこそこのショートカットの姉妹だった。

髪の長さは確かに東條あかりと似ていたが、顔は違う。


俺たちは顔を見合わせ、ちがう……と小さく首を振った。


その後、俺たちはその子をファミレスに誘った。

窓際のテーブル。

彩花と名乗ったその子は、コーヒーカップを両手で包み込み、冷えた指を温めるようにしながら震える声で語り始めた。


「実は……私、親から隠れてここに逃げてきたんです」


俺たちは息を呑んだ。


「父が、エホバの証人を『カルト』だと言って……私の聖書や他の本を全部、庭で灯油をかけて燃やしたんです」


西村姉妹が思わず声を漏らす。


「灯油!?聖書を……燃やすなんて……」


彩花は涙をこらえるように目を伏せた。


「それだけじゃありません。スマホも叩き壊されて、集会に行くたびに『洗脳されてる』って殴られて……

 しまいには、『お前はもう娘じゃない』って言われました」


ミカが震える手で彩花の手を握る。

俺は言葉を失った。


彩花は、かすかに笑おうとした。


「だから、夜中に荷物をまとめて、会衆の兄弟に助けてもらって、ここに来たんです」


その瞬間、俺たち三人は同時に同じことを思った。


――あかりちゃんも、もしかしたら、同じような理由で父から逃げているのかもしれない。


その時。

ファミレスの大きな窓の外。

駐車場の街灯の下で、一瞬だけ、見知らぬ男がスマホの明かりを光らせた。


そのときは、俺たちは誰もそれに気づかなかった。


ファミレスを出ると、西村姉妹がぽんと手を叩いた。


「せっかく群馬まで来たんだから、紅葉を見に行きましょう!

 彩花ちゃんも一緒に。ね?」


彩花ちゃんは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頰を緩めた。


「いいんですか……?」


ミカが腕を絡める。


「もちろん!」


こうして、四人は再び軽バンに乗り込んだ。


俺はハンドルを握りながら、バックミラー越しに後部座席を見た。


ミカが彩花ちゃんの手を取って、まるで昔からの知り合いのように話している。

西村姉妹も横から相槌を打ち、 三人の笑い声が狭い車内に絶え間なく響いた。


まるでさっきまで涙を流していたのが嘘のように。


山道を登りきると、眼下に紅葉の海が広がっていた。

燃えるような赤、沈むような黄、

風に揺れるたびにざわめくような音がする。


女性陣は、すぐに手を繋いで写真を撮り始めた。


「はい、彩花ちゃん真ん中! 笑って笑って!」


「西村姉妹もこっち来て!」


「ミカちゃん、もっとこっち寄って〜!」


シャッター音が鳴るたび三人は子供のようにはしゃいだ。


俺は少し離れたベンチに腰を下ろし、その様子を眺めていた。


……なるほど。


だから「兄弟姉妹」って呼ぶのか。


血の繋がりなんて関係ない。

たった今会ったばかりの彩花ちゃんを、 西村姉妹もミカも、まるで本当の妹のように扱っている。


父親に聖書を燃やされ、殴られ、「お前はもう娘じゃない」と言われた少女が、

今、こんなに無邪気に笑っている。


仲間がいるから家族がいるから笑えるんだ。


俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。


この人たちは本当に「家族」なんだ。


風が吹いて紅葉が一斉に舞い上がった。


そのとき、俺は初めてこの輪の中に入りたいと本気で思った。

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