第13話 消えゆく煙?
日曜の午後。いつもの聖書レッスン。
静かな空気の中、田中兄弟が『いつまでも幸せに』のページを開いた。
「今日は2番の項目です。
――クリスチャンとして『清い人でいるために、どんなことを避ける必要があるか』」
エホバの証人として生きていくために、守るべき指針のようなものだ。
俺はポケットの中でタバコの箱を握りしめた。 予感はしていた。
とうとうこの話題が来る。
田中兄弟は穏やかな声で、しかし一切の迷いなく続けた。
「聖書はこう言っています。『体と精神のあらゆる汚れを除き去って自分を清めなさい』 ――コリント第二7章1節
この汚れにはタバコも含まれてます」
俺は苦笑いを浮かべた。
「あぁ……先に読んでて薄々気づいてたけど、やっぱり来たか」
田中兄弟は微笑みながらも、真剣な眼差しを俺に向ける。
「健太さん、タバコは体に悪いです。 ニコチン、タール、一酸化炭素…… 肺がん、喉頭がん、心筋梗塞、脳梗塞…… 世界では毎年700万人、日本だけでも12万人が命を落としています」
横でミカが小さく頷いた。
さらに田中兄弟が続ける。
「タバコ1本で寿命が7分縮むと言われています。 1箱で2時間20分。 毎日1箱なら、1年で約35日分の命を捨てていることになるんです」
俺はタバコの箱を握る手に力を込めた。 逃げ場のない数字が、胸に突き刺さる。
「それに、タバコは依存性薬物です。 ヘロインより離脱が難しいという研究もある」
田中兄弟の声は優しい。だが、その優しさは確実に俺を追い詰めていた。
俺は文字通り頭を抱えていた。
「佐藤さん、清い人でいるということは、自分の体を大切にすることでもあります。
実は、エホバの証人は、世間でタバコが有害だと広く知られるずっと前から、聖書の教えに従ってタバコを避けてきたんです。
だから、多くの人が健康被害に苦しむ中でも、私たちはその影響から守られてきました」
部屋が静まり返る。その沈黙の中に、ミカが小さな声を落とした。
「私、友達がタバコをやめてすごく元気になったって聞いたんです。佐藤さんも、きっともっと元気になれますよ」
俺はゆっくりと顔を上げ、ポケットからタバコの箱を取り出しテーブルに置いた。
「……ふん。禁煙、やってみるか」
田中兄弟が笑った。
「エホバは助けてくださいますよ」
俺は苦笑しながらも、胸の奥に不思議な爽快感を覚えた。
「やってやるよ。……ミカちゃんの笑顔のためにもね」
ミカがぱっと笑顔を輝かせる。 まったく……。自覚のない殺人光線だ。
俺は、まだ半分以上残っているタバコの箱を初めてゴミ箱に捨てた。
――これで、また一つ、壁を越えた。
田中兄弟が言う。
「もし誘惑に負けてまたタバコに手を出してしまっても諦めないで続けてください。
一歩ずつ進みましょう。」
翌日。
禁煙初日。
俺は仕事でゴミ屋敷の片づけをしていた。
しかし、頭の中は仕事よりタバコでいっぱいだった。
「……一本だけ。いや、半分だけ……」
ポケットを探るが、もう箱はない。昨日捨てたんだった。
仕方なくガムを噛む。 三分後――ガムを噛む顎が疲れてきて、イライラが倍増。
「くそっ、ガムで肺は満たされねぇ!」
思わず自分の足を叩いたら、ミカからLINEが来た。
《佐藤さん、禁煙どうですか?》
ちきしょう。見張ってるのか?
俺はスマホを握りしめて、深呼吸。
《……今、ガムで肺を満たしてるところだ》
送信した瞬間、ミカからスタンプが返ってきた。
笑顔のウサギが「がんばれ!」と跳ねている。
俺は思わず吹き出した。
「……殺人光線はスタンプでも飛んでくるのかよ」
結局その日は、ガム三枚と缶コーヒー3本で乗り切った。
その夜は眠れなかったけど――まあ、タバコよりはマシだ。
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