第7話 気づいたときには、もう戻れなかった

レッスンはもう2ヶ月目に入っていた。

最初は「東條あかりに近づくため」だった。

東條憲一には手掛かりは掴んだとかなんとか適当に報告していた。


それが、いつの間にか毎週日曜の聖書のレッスンが俺の人生で一番落ち着く時間になっていた。

『いつまでも幸せに』のページはボロボロになり、 聖書の付箋はどんどん増えていった。

ある聖書レッスンの日。

田中兄弟が開いた聖書のページはヨブ記26章7節だった。


「神は北の空を何もない所に広げ、

地球を空間に浮かせている。」


地球が浮かんでるって?こんな大昔の本に?


良く分かんないけど、大昔ってカメの背中に半分になった地球が乗っててどうこうって言われてた時代じゃ無いのか?


俺は、その一文を目で追った瞬間、胸の奥に、三十年近く前の記憶が一気に蘇ってきた。


――小学校に入る前のある夏。

一人で走って公園に行った。

そして、公園のブランコから落ちて膝を真っ赤に擦りむいた。

痛くて、怖くて、涙が止まらなくて、

誰もいない砂場で、

初めて「神様……助けて」と声に出して祈った。


すると本当になぜか家にいるはずの母の声がして、走ってきてくれた。


「健太! 大丈夫!?」

母は俺を抱きしめて、ハンカチで血を拭いてくれた。

「よかった。なんとなく嫌な予感がして様子を見に来たのよ」


そのとき、俺は

「誰かが、ちゃんと見ててくれる」

って、確かに思った。


――中学二年の冬。

理科の授業で宇宙の話を聞いて、

夜、河原の堤防の草っぱらに寝転がって星を見た。

今見ている星の光が何億光年も先にあるって知って、自分の小ささに震えた。


「俺、なんでここにいるんだろう」

星空に向かって呟いたとき、答えはなかった。


ただ、

あまりにも広すぎる宇宙の中で、

自分が「ここにいる」ってことだけが、

妙にリアルで、怖かった。


――そして今、ヨブ記の一文が、

その二つの記憶をぴたりと繋いだ。


神がこの途方もない宇宙の真ん中に地球を置いた?


そして、この俺も……?


俺は、聖書のページを見つめたまま声が震えた。


「……俺、

 小さい頃、神様に助けてもらったこと、あるんです」


田中兄弟とミカが静かに俺を見た。


「膝すりむいて泣いてるとき、

 神様助けてって祈ったら、母が来てくれて……

 中学のときも、宇宙の大きさに震えた夜があって……

 なんで俺がここにいるのか、ずっとわからなくて」


うまく言葉にならない……。

俺は、息を吸って、続けた。


「でも、今、

 この聖句読んで、

 初めてわかった気がする」


ミカが、小さく微笑んだ。

田中兄弟が言った。


「エホバは、

 ちゃんとあなたを見てくれてるんですよ」


俺は、必死で瞬きして涙が滲むのを堪えながら頷いた。


宇宙の真ん中で、

俺は、確かに「ここに」いた。


そして、誰かにちゃんと見守られてるって三十年ぶりに実感した。


そしてその日の夜。

俺はタバコをくわえたけど、火をつけるのを忘れた。


次の日曜日。

西口で伝道していたミカを見かけた。


俺は自然と近づいて、

「今日も頑張ってるね」と声をかけた。


ミカは顔を上げて、本当に嬉しそうに笑った。


「佐藤さん! レッスン順調ですね。 」


その笑顔に俺は完全にやられた。


「……そう、だね」


俺は微笑みながらふと思った。


――俺、いつから仕事忘れてたんだ?


東條あかりを探す。

それだけだったはずなのに。


今は、聖書を開くのが楽しみで、ミカの笑顔を見るのが楽しみで、田中とくだらない話で笑うのが楽しみで……。


俺はもう完全にこの世界に落ちていた。


ミイラ取りがミイラってか。

ハハッ。


風が吹いて、ミカの髪が揺れた。


――もう、戻れないかもしれない。


でも、それが、なんだか悪くなかった。

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