第6話 回想 ――あかり、15歳の夏

その夏は、奇妙な「休戦状態」だった。


母の美津子は毎週のようにエホバの証人の集会に行き、父の東條憲一はテレビを見ながらそれを黙って見送るだけ。

あかりは間に挟まって、

「お父さん、お母さんを責めないで」

「お母さん、お父さんを怒らせないで」

と、毎日綱渡りをしていた。


表面上は、戦争は終わったように見えた。


そんな夏。

美津子の健康診断で、便潜血反応が陽性だった。

「念のため精密検査を」と言われ、近所の総合病院で大腸内視鏡検査が決まった。


診察室で医師が言った。


「エホバの証人の方ですね。 輸血を拒否されている、ということで」

美津子はまっすぐに医師を見つめた。

「はい。聖書に『血を避けなさい』という命令があるので……

 いかなる場合でも、輸血は受けられません」


「分かりました。信仰は尊重します。

ですが、万一の出血に備えて、輸血拒否の同意書にご主人にもサインをいただきます。

ご主人は信者ではないんですよね?」


美津子は小さく頷いた。

それは、出血があっても輸血が出来ないため、万一重大な事故が起きても医師や病院の責任を問わないという誓約書である。

あかりは母の手を握りしめた。


東條憲一は、診察室の隅で腕を組んで立っていた。


「……万が一って、どれくらいの確率なんです?」


「まあ、単なる検査ですから。今ではほとんど起こりません」


医師は淡々と答えた。

東條は一瞬、妻を見た。

美津子は静かに、夫を見つめていた。


「……それなら」


東條はペンを取り、

「輸血拒否治療同意書」と書かれた紙に嫌々ながらサインした。


「こんなもん、必要ないだろうに」


小声で呟いた言葉は誰にも届かなかった。


検査は無事に終わり、ポリープがいくつか見つかっただけで、出血も無く、輸血も、もちろん必要なかった。


退院した帰りの車の中、美津子は夫の手を握って言った。


「ありがとう、憲一さん。

 エホバが守ってくださったわ」


東條はハンドルを握ったまま何も答えなかった。


ただ、あの同意書のざらざらした感触がこびりついて離れなかった。

ーー輸血出来ない?

――万が一が、起こっていたらどうなるんだ?



その思いは8年後、妻が本当に死ぬときに東條憲一の中で別の形に変化する。


あかりは、助手席で母の笑顔を見ながら何も知らずに祈っていた。


「お父さんが、いつか理解してくれますように」


その願いはこの夏の日差しと一緒に静かに溶けていった。

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