第3話 回想 ――東條あかり、12歳の冬

夕飯の後片付けの音が響く台所で、突然東條憲一の声が響いた。


「お前、俺の顔に泥を塗る気か?」


東條憲一はネクタイをゆるめながら、妻の美津子を睨みつけていた。

テーブルの上には取引先の社長の訃報が載った新聞が開いたままだった。


「明日は大事な取引先の葬式だ。うちの会社が今一番頼りにしてる相手だぞ。

 出席できないって、どういうことだ」


美津子は皿を拭く手を止めて、夫を見た。


「ごめんなさい……でも、私たちエホバの証人は、お葬式で焼香したり、合掌したりできないの。

 それは亡くなった方を崇拝していることになってしまうの……だから」


「崇拝?は?あんなのはただの礼儀だろうが!」


東條の声が一段高くなる。

美津子は俯いたまま、小さく首を振った。


「ごめんなさい。私にはできない。亡くなった方のことは大切に思ってるし、あなたのことも……」


その瞬間、東條の手が振り上げられた。


「ふざけるなよ!」


次の瞬間、

リビングのドアが勢いよく開いて、12歳のあかりが飛び込んできた。


「やめて! お父さん!!」


あかりは母の前に立ちはだかり、両手を広げた。

小さな体が震えているのに、目は真っ直ぐ父を見据えていた。


「お母さんは悪くない! お母さんは神様に従ってるだけだよ!

 お父さんだって知ってるでしょ? お母さんがどれだけ真剣か……!」


東條の手が空中でピタリと止まった。

怒りで赤くなった顔が一瞬苦しそうに歪んだ。


「……あかり、お前まで……」


美津子がそっとあかりの肩を抱いた。


「大丈夫よ、あかり……お父さんが悪いわけじゃないから」


あかりは涙をこらえながら父を見上げた。


その必死な顔に、東條は拳を握りしめたまま何も言えずに部屋を出て行った。


ドアが閉まる音が響いた後、美津子はあかりをそっと抱きしめた。


「ごめんね……怖かったね」

「……ううん。お母さんを守れたから」


あかりは母の胸に顔を埋めながら小さな声で呟いた。


「いつか……お父さんもわかってくれるよね?」

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