さよならの速度を止めて
千桐加蓮
さよならの速度を止めて
拝啓、先生。
お変わりなくお過ごしでしょうか。
今日は、ひとつだけ教えてほしくて手紙を書きました。
さよならの速さを、教えてください。
人の脳は、一度覚えたことを一時間後には半分以上忘れてしまうそうです。
雨は、雲から落ちて地面に届くまでに、十数分かかるそうです。
では、人が誰かとさよならをするのには、どれくらいの時間が必要なのでしょうか。
私は、先生の顔や話し方を、少しずつ思い出せなくなっています。
それなのに、朝は来て、高校の寮で食事をして、いつも通り学校に行って一日が終わります。
寂しいとも、怖いとも、あまり思いません。ただ不安です。
さよならは、思ったより早く来るのでしょうか。それとも何年もかけて、やっと言えるものなのでしょうか。
どうか、教えてください。
敬具
教育実習で教壇に立っていた頃の自分は、名前ではなく役割で呼ばれていた。「先生」と呼ばれるたび、背筋が伸びていたような気がしする。
スマートフォンの画面を伏せ、長めのため息を吐いた。
メッセージは、もう三回読んだ。それ以上読むと、言葉の角が丸くなってしまいそうで、指を止めた。
「さよならの速さ、か」
小さく声に出すと、思っていたよりも乾いた音になった。
教師でもなければ、答えを持っているわけでもない。
それなのに、あの子はいつも、僕を先生と呼ぶ。
散らかった古い賃貸のワンルーム部屋の隅で、カメラが黒く光っている。
ベランダのないアパートの、小さな窓。
そこから見えるのは、変わらない住宅街の朝だ。
画面をもう一度だけ確かめる。
『拝啓、先生』
その一行が、喉の奥に引っかかる。
事故のあと、忘れた記憶は多い。
けれど、忘れられなかったものもある。
教壇に立つ自分の背中。名前ではなく、役割で呼ばれる感覚。「先生」と呼ばれるたびに、過去の続きに立たされる。
続ける速さが、もう分からなくなっていた。
いつも通り、缶ビールを小さな冷蔵庫から取り出し、開けず飲み口に唇を当てた。ひんやりとしている。そんなことをぼんやりと思う。
母の冷たくなっていく身体も、ひんやりしていたような気がする。
冷凍保存されて売り出されるみたいな、そんな冷たさだった。
玄関の外では、微かに足音が止まる。
ノックの前の、ほんの一拍。
今日も、あの子が来る。
先生と呼ぶ妹が。
僕もまだ、さよならの速さを知らない。知らない生活に、満足していた。
玄関のドアが、控えめに叩かれた。
時計を見ると、約束の時間ちょうどだった。
「はい」
ドアを開けた瞬間、冷たい空気が流れ込む。
黒いダウンに白いマフラー。
見慣れたはずの姿なのに、宇宙から来た生命体みたいに見えた。
「先生、おはようございます」
靴先を揃えて、少し背筋を伸ばした妹は、当たり前みたいな顔で立っている。
まるで、教室に入ってきた生徒のようだ。
「寒かっただろ」
そう返すまでに、ほんの一拍かかった。
先生、と呼ばれたことを訂正する理由を、探してしまったからだ。
「うん。でも大丈夫」
妹はにこっと笑って、マフラーを指で押さえた。
「今日、写真撮るんでしょ?」
どうして知っているのかは、聞かないことにした。この部屋では、聞かない方がいいことが多すぎる。
「入れよ」
妹は軽く会釈をしてから部屋に入った。仕草まで、きちんとしている。
散らかった部屋を見回しても、顔色は変えない。ここに来るのは、初めてじゃないからだ。
退院したばかりの頃、まだ小学生だった妹から一度だけ「お兄ちゃん」と呼ばれたことがある。
その声を聞いた瞬間、頭の奥が真っ白になった。
雨の日、対向車線からはみ出してきた車。運転席にいたのは、今の僕と同い年である男だったらしい。
母はその場で死んだ、と聞かされた。
それからしばらく、僕は名前で呼ばれると、立っていられなくなった。
妹が「先生」と呼ぶようになったのは、その少しあとになる。
「先生、窓」
妹は小さな窓を顎で示す。胸の奥で何年分もの時間が流れた。
退院後のやり取り、たわいもない妹からの写真の山、事故の記憶のかすかな断片。
そして、母の死。
すべてが、この窓の光の中に詰まっている気がして視界が歪んだ。
「眩しい。冬の朝の太陽は意地悪だ」
「そう? 今日はいい冬晴れなのに。なら先生、窓はカーテンで隠します」
先生。
呼ばれるたびに、僕を過去の位置に立たせる。
違う、と言うには遅すぎて。そのままでいい、と言うには重すぎた。
「コーヒー、飲むか」
逃げるみたいに背を向けると、背中に、明るい声が届く。
「ありがとうございます」
シャッターを切る前なのに、もう何かを失った気がした。
シャッターを切る音が、部屋に一つだけ残った。
カーテンを閉めたままにしたせいだからなのか、蛍光灯と相性が悪かったのか、カメラで撮った写真にしても代わり映えはしないだろう。
「撮れました?」
妹が、少し身を乗り出す。
「……ああ」
カメラを下ろすと、手首がわずかに重かった。
「先生」
呼ばれて、今度はすぐに返事ができなかった。胸の奥で、何かが遅れて届く。
「それさ」
声は、自分でも驚くほど静かだった。
「もう、やめよう」
妹は一瞬だけ、きょとんとした顔をした。
それから、ゆっくり瞬きをする。
「……だめ、なの?」
責めるでもなく、困るでもなく。
ただ、確認するみたいな声だった。
「だめじゃない。ただ、先生じゃない」
胸の奥で、長年の時間が弾けたような感覚に陥る。
妹はしばらく無言で写真を指でなぞる。
「じゃあ」
少し考えてから、顔を上げる。
「お兄ちゃん?」
呼び方が、部屋に落ちるまで、思ったより時間がかかった。
「うん」
ぎこちなく返事をすると、妹はほっとしたみたいに笑った。胸の奥に引っかかっていたものが、音もなく外れる。
「待たせてごめん、八年か……」
僕は肩を落とし、視線を床に落とす。
「先生って呼ばせてしまって、ごめん」
有希はぎゅっと唇を噛み、目を潤ませた。
「でも、ずっとそばにいてくれたんだね」
彼女は大粒の涙をボロボロと流す。
「ありがとう」
眉の力が抜けていくのを見て、僕はもう一度、衝動に駆られ、カメラを構える。今度は構える速さが少しだけ違う。
シャッターを切った瞬間、僕も唇を噛んだ。
さよならは、言葉を変える速さで訪れるものか。
「お兄ちゃん、また公園行こう。ブランコ、膝に乗せてこいでくれたよね」
少し間を置いて、彼女は小さく肩をすくめる。
「もう膝には乗れないけど……」
彼女は小さく肩をすくめ、僕の手をぎゅっと握った。
カーテンの隙間から差す光の中、涙が再び頬を伝う。時間がほんの少し止まったように感じた。
さよならの速度を止めて 千桐加蓮 @karan21040829
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