地獄の公爵フロイトさん ~エクソシストなんて不要です!~
黒澤 主計
前編:もしかして、私は『罠』に嵌められた?
やはり、これは『罠』だったのか。
「フロイト先生。やはり、疑わしく思えてなりません」
黒衣の神父が、鋭い目で私を睨む。
さすがに、この状況はまず過ぎる。いかに私とて、ここで『儀式』を行われては無傷ではいられない。
「やっぱり、先生も『悪魔』だということなのでしょうか」
冷酷な声を出し、神父は聖書を開こうとする。
どうすればいい。
このままでは、私は間違いなく『退治』される。
私の名前はジグムント・フロイト。
あまりにも有名な心理学者。十九世紀末のウィーンで活動を始め、『精神分析学』なる学問の創始者となった。
だが、それは世を忍ぶ仮の姿。
そもそも私は、『人間』ですらない。
普段の活動場所だって、ウィーンなんて街ではない。
私が本来いるべき場所は、『地獄』なのだから。
元々の私は、平穏な暮らしを楽しんでいた。
『地獄の公爵』、つまり大悪魔である私は、地上には滅多に出ることはしない。地獄にある邸宅で教養を磨くことに心を砕いていたものだった。
だが、そんな穏やかな日々は続かなかった。
「フロイト様。また、地上の同胞が悪魔祓いに!」
何度も何度も、そんな報告を耳にした。
『エクソシスト』
悪魔祓い師とも呼ばれ、十字架や聖書などを駆使し、人間に憑依した悪魔を強制的に『祓う』ことを生業とする。
そんな人間たちに、既に何体もの悪魔が葬られたという。
「これは、どうにかしなければ」
地獄の公爵としては、こんな問題は看過できない。
数百年ぶりに、私は『地上』へと旅立った。
どうすれば、邪魔なエクソシストどもを排除できるか。
この点で、私は幸運だったと言っていい。
「おお、これは使えるじゃないか」
『作戦』に関しては、あっさりと『良いもの』を発見できた。
私は平和を愛する存在。表立っての戦闘は好まない。
そんな私にぴったりな、『理想の道具』が見つかった。
「これなら、人間どもを上手いように操れる」
成功すればこの先ずっと、私たち悪魔は平穏を得られるようになる。
「この『心理学』というものを利用すれば」
心理学。
ヴィルヘルム・ヴントなる男が提唱した学問。人間の心の仕組みを研究するというもの。
実に便利な考え方だ。
知れば知るほど、私たち悪魔にとっての『最大の武器』と見えた。
「いいですか? 悪魔の存在なんて『妄想』なんです。抑圧や葛藤、そんな心の病がピークに達した時、『悪魔に憑依された』なんて思い込むようになるのです」
この考えを浸透させ、悪魔祓いをこの世から排除する。
「家族や知人が『悪魔』に憑依されたと思ったら、まずは医者に診せてください。その方がより確実に『治療』が行えるはずだから」
あとは、私たち悪魔の天下だ。
そして、最後に私はこう告げる。
「いいかい? 君は悪魔なんかじゃない。れっきとした人間なんだ」
『賢い悪魔』なら、これで気づくはずだろう。『妄想の産物の振り』をすることで、エクソシストに祓われる心配もなくなると。
まさに、完璧過ぎる計画だ。
ちなみに、私はそこらの低級な悪魔とはわけが違う。
地獄の公爵である私は、自力でこの世に実体を持つことが出来る。わざわざ人間に憑依する必要はない。
「先生、またエクソシストが動き出したそうです」
現在は西暦一八九〇年。私の表向きの年齢は三十四歳。一人の学者としてウィーン大学に籍を置いている。
「うむ、では行ってこよう」
馬車に乗り、ウィーンの郊外にある町へ向かう。石畳の路地の両脇には点々と小さな建物が並ぶ。
でも、これは大きな間違いだった。
私は少し、油断していたのかもしれない。
心理学があまりに便利過ぎたから、少々慢心してしまっていた。
結論から言うと、この案件は『関わってはいけないもの』だった。
辿り着いた先は、どうも嫌な雰囲気のする場所だった。空はどんよりとした雲が立ち込め、昼間だというのに街全体が灰色に染まっている。
「焼きたてパンですよお。パンいりませんかあ」と、路地で声を上げる男。だが、手に持っているのは茶色いだけの粘土だった。
「ここだな」と屋敷を見上げる。ドアの前は草が伸び、一見すると廃屋にも思える。
ゴンゴン、とノックし、戸が開けられるのを待つ。
「あなたが、高名なフロイト先生ですか」
上下とも黒い衣服を着た人間が現れる。右手には聖書、首には十字架の首飾り。
「ヴァチカンから派遣された、デミアン・ベーゼマン神父です」
やせ細った男。目の下には黒いクマが浮き、もみあげが長かった。
こいつが、エクソシスト。
小さく息を呑み、私は男に頷き返す。
「では、『患者』と会わせていただきましょうか」
来るんじゃなかった、と数秒で激しい後悔が及んだ。
「こちらが、今回『悪魔』の被害に遭ったカールくんです」
神父の案内を受け、奥の部屋へと向かう。廊下も掃除が行き届いておらず、綿埃が溜まっていた。空気もカビ臭く、息を吸うのも抵抗を覚える。
そうやって、問題の部屋へと招かれた。
瞬間、思わず顔をしかめさせられた。
「先生、どうなんでしょう? ウチの子は、これでも悪魔と無関係なんですか?」
青いドレスの夫人が心配そうに訴える。身長は高く、肩幅も広い。厚化粧で顔が真っ白になっていた。
「うむ」とひとまず声を出す。
目の前では、『キヒヒヒヒ』と奇妙な笑い声を上げる少年がいた。
どうしよう。もう帰りたくなっている。
さすがに、『こういうケース』は想定外だ。
「朝からずっと、こんな感じなんです。これでも、単なる心の病なんですか?」
説明を受け、改めて『少年』の方へと視線を向ける。
「これは、なかなかの重症ですね」
とりあえず、そのくらいしか言葉が出ない。
というか、これ本当にどうするの?
少年はぴったりと、部屋の『天井』に貼りついていた。
うーむ、としばらく腕組みをして考える。
これはもう、無理なんじゃないか?
天井に貼りついている段階で、どう考えても怪奇現象なのだが。
ここにどうやって、心理学で説明を付ければいい。
背後からの視線を感じる。神父と夫人がじっと私を睨みつけていた。
「これはなんというか、実に『心が病んでいる』と感じます」
とりあえず、まずは勢いで押し切ってみよう。
「これ、心の問題なんですか?」神父は冷たい視線を向けてきた。
やっぱり、無理があるか。
「心理学に詳しくない人間だと、難しいかもしれませんね。でも、これは『心の病』としてよくあることなんです」
自分でも、何言ってるのかわからない。
「でも、天井に貼りついてますよね?」
そうですよね、と心の中で返す。
どうしても、そこが気になりますよね。
本当にこの悪魔、何を考えてるんだ。
今まで出会った悪魔憑きは、実に大人しいものだった。せいぜいが『私は悪魔だ』と低い声を出したり、目元に黒い星のマークを描いて喜んだりする程度のものだったのに。
なんでここまで、超常現象な感じを表に出す。
だが、私もプロだ。
「これは心理学用語でいう、『幼児退行』というものです」
どうにか、いい感じの単語を思いついた。
「言ってみれば、幼い子供や『生まれる前の状態』に戻ることにより、目の前の問題から逃げようとする、とても人間らしい行動であると言えます」
「どういうことでしょうか?」
「ほら、胎児というのは頭が下。つまり重力が反転したような状態にあるものでしょう。彼は天井に貼りつくことで、その状態を表現しているんです」
なんとなく、『それっぽい話』が出来ている気がする。
「でも、どうやって天井に貼りつくんですか?」
あとは、この部分だけが問題だ。
「まあ、色々と頑張った結果でしょう」
ここまで来たら理屈じゃない。
それに良く見ると、少年は手足をしっかりと突っ張らせている。さすがは下級悪魔。いわゆる超常の力だけでは足りず、筋力に頼る結果になっている。
一応、説明がついた感じがする。
私、本当に頑張った。
その後、少年はベッドの上に着地した。
大量の埃が立つ。咳き込みそうになり、うんざりした気持ちが強まる。
「とりあえず、一晩眠れば治るんじゃないでしょうか。彼は『普通の人間』なので」
とにかく、今は寝かせよう。それでもう、私は帰る。
さっきのは驚いたけれど、これで大人しくしてくれれば全てが終わる。
さすがに、天井に貼りつく以上にまずい事態は起こるまい。
そう、期待したのだが。
「違う! 俺は悪魔だ!」
唐突に、少年はベッドから飛び起きた。
「本人もそう言ってますが、どうなんでしょうか?」
神父が顔を曇らせる。
「これはただ、そう思い込んで……」
「だっせえ十字架だな! むしってやるぜ!」
うまく説き伏せようとした時だった。少年が神父の胸元に手を伸ばす。
直後に、『ジュウ』と音がした。
「ああっちいいいいい!」
右手を押さえ、少年が絶叫する。
「これは」と神父が両目を見開く。
ぬう、と声が出そうになった。
「手の平が赤い。完全に、『火傷』している」
苦しむ少年の手を取り、神父はしげしげと観察した。
ブワっと、全身に冷や汗が浮いた。
まずい。これは確実にまずい。
「フロイト先生」
深々と息を吐き、神父が私に向き直る。
「これは、悪魔の証拠ではないんでしょうか?」
やだなあ、と目の前が暗くなった。
「いいえ、残念ながら違います」
苦々しい想いで、私は『答え』を口にする。
「これは、あれですね。『自己暗示』というものです」
「どういうことですか?」
「心理学の世界では、よくあることなんです。『強く思い込む』ことによって、実際に体に火傷が出来たり、痛みを感じたりすることもあって」
とりあえず、今度はこれで押し切ろう。
心理学とは、この時代の人間にとって『未知』のもの。だから、多少適当なことを言ってもうまく丸め込めるはず。
「本当に、そんなことあるんですか? 『自分は悪魔だ』と強く思い込むと、十字架に触れただけで火傷するなんて」
あれ、と呆然と目を見開く。
なんだろう。今すごく、嫌な予感が。
「証明できますか? 今の話。心理学のプロである先生なら、自己暗示で実際に火傷するまでになるようなことが」
ぐ、と息を呑む。
「いいでしょう。それなら、証明してみましょう」
これは、多分拒否できない。今の理屈を通すためには、身を持って『何か』を示さねば。
「あなたは『心理学』の素人だから、心の力の凄さがわかっていない。今から、私が身を持ってそれを示します」
宣言し、右腕の袖をまくりあげる。
「さあ、十字架を押し付けてみなさい。『私は悪魔だ』と、私は自分自身に強く言い聞かせている。それで本当に、十字架で火傷するはずだ」
もちろん、実際に悪魔だからいつでも火傷はするのだけれど。
「わかりました。じゃあ」
躊躇わず、神父は私の額に十字架を当てた。
なんで、私がこんな目に。
「本当に、すごい火傷ですね」
「あら、痛そう」
夫人まで近くに来て、私の額を覗き込む。
なんて、酷い奴らだろう。
熱かった。想像していたよりも十倍以上は熱かった。『ジュウ』とか音も鳴っていた。
というか、なんでこいつは額に押し付けた? せっかく腕まくりしてたのに。
「これで、信じていただけたでしょうか。『自己暗示』とは恐ろしいものなのです」
どうして、こんなに体張らなきゃならないの?
今度こそ、帰ってもいいだろうか。
「というわけで、君はもう寝なさい。君は人間なんだから」
あとは、この神父を連れて家を出る。それで私のミッションは終了だ。
そう思い、ドアへ向かおうとした時だった。
「た、大変!」
背後から夫人の声がする。
非常に低く、太い声。つい振り返らずにいられない。
すぐに、目の前が真っ暗になった。
少年の様子がおかしかった。体は私たちの方を向いているのに、首から上がぐるりと背後の方へと向いていた。
どう見ても、怪現象。
「首が! ウチの子の首が一八〇度も回転して!」
クソが!
こいつ、本当に何がやりたいんだ。
もしかしなくても、本気でアホなのか?
「俺は悪魔だ。さあ、お前ら恐怖しろ!」
とりあえず、拳で解決してやりたい。
うまく顎の辺りでも殴っておけば、首も元の位置に戻るだろうか。
「これももちろん、心理学的現象です。そう言えばちょうど、この近辺にも『心の病』を治療する病院がありましたね」
来る途中、建物があるのが見えた。入院患者も多くいるとか。
「フロイト先生。さすがにこれは悪魔でしょう」
頼む。私をこれ以上困らせないで。
「これは、いわゆる『現実の否認』という心の防衛機制です。人は嫌な現実と向かい合うと、その事実そのものを『なかったこと』のように扱いたがるものなのですね」
神父も夫人も怪訝な顔をする。
「彼はこうして、首を一八〇度も背後に向けることで、目の前にある現実全てを見まいとしている。そういう『心の葛藤』の表れなんです」
無理がある、と自分でも思う。
でも、これで押し切れないか?
「けど、そんなに首は回らないでしょう?」
「いえ、サーカスの人とかなら普通にできます。酢とか飲めば柔らかくなるんで」
たしか、そんな話を聞いたことがある。
「ふうん」と神父は冷たい目を向けた。
どうも、今のは失敗だったらしい。
さっきの話、明らかに不信感を煽ってしまった。
神父は今も、聖書をパラパラとめくっている。
もしかして、読み上げる気なのか? 私も同じ部屋にいるというのに。
「ああ天軍の総帥、霊魂を損なわんとしてこの世を徘徊するサタン及び……」
やっぱり、と思った時には遅かった。
「ぐ」と途端に眩暈がする。
この感じ。長時間馬車にでも揺られた後のような、圧倒的な気持ちの悪さ。
ちなみに私は、『乗り物酔い』する体質だ。
「すみません。ちょっとそれ、やめて下さい。私にもダメージあるので」
我慢できず、制止の声を上げる。
「はあ?」と神父は顔をしかめる。
「あの、さっきの『自己暗示』がまだ抜けてなくて」
苦しいな、と思いつつも右手を掲げる。
神父の目に、更なる不信の色が浮かび上がる。
「わかりました」
それでも、パタリと聖書を閉じてくれた。
良かった、と胸を撫で下ろした。
まずはいったん、外の空気を吸いたい。乗り物に酔った時だって、しっかり空気を吸うのが一番だから。
そうやって、ドアへ向かおうとした時だった。
「おいおい! 騙されるんじゃねえぞ!」
少年が起き上がり、耳障りな声を上げる。
「そいつは人間じゃない。俺と同じ悪魔なんだよ!」
な、と両目を見開いた。
「先生。どういうことですか?」
無表情に、神父は冷たく問いかける。
「いえ、まさかそんなことは……」
「間違いない! そいつは悪魔だ! 同類だからわかるんだよ!」
私の言葉をかき消して、少年が再び声を発する。
こいつは一体、何を言っている?
まさか、という想いが込み上げてくる。
今まではただ、こいつがアホなだけだと思っていた。
でも、実は何かの『意味』があるとしたら?
どうしてこいつはこんなにも『自分は悪魔だ』と示すような行動を取るか。
今のところ、考えられる可能性は一つ。
彼が大暴れした結果、私がこの場に参上し、『悪魔』ではないかと疑われている。
もしかして、それが『目的』だったのでは。
理屈はよくわからない。でも、『誰か』が私を邪魔に思ったか。
この場で私を悪魔だと示し、殺させようと目論んだ。
「君は」と少年の顔をまじまじと見やる。
つまり、私は、『罠』にかけられたということなのか?
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