第3話 警察

「僕は、もう少し探します」


「…はい?」


歩き出す彼の手を、私は反射的に取り、軽く自分の方へ引き戻す。


「…こんな雨の中ですか?流石に危ないですよ」


その時、電話が繋がった。

“事件ですか、事故ですか?”と聞かれ、私は彼の震える手を離さず、警察に状況を伝える。しかし話を終えた後、彼は私の手を振り払った。


「晴美は!晴美は…僕の生き甲斐なんです。絶対、見つけないと…」


警察との通話が切れる。私は震える足で彼の前に立ち、手を広げて道を塞ぐ。


「大切な人がいなくて、心配なのは分かります。けど、晴美さんにとっても、翠くんは大切な存在だと思います。それは私にとっても…」


無駄なことを言いかけ、唇を噛む。

…翠の憎い妻が居なくなって、本当は心配よりも嬉しい気持ちが勝ってしまう。

けれど、彼にとってそれは絶望でしかなく、不安が身体を襲っている最中なんだ。


…推しの幸せを守る。それが、ファンである私の、今できること。


「貴方がここで晴美さんを探して、仮に死んでしまったら…どうするんですか?」


…本当に何を言っているんだろうか。

本当は嬉しいはずなのに…嬉しく思ってしまうのに。


「こんなこと言いたくないですけど、ハッキリ言って今の私達では無力です。今私達にできる、最善のことは警察に電話して、救助を待ち望む…ただそれだけ」


無意識に話し続けていたけれど、ハッと我に返る。翠に視線を戻すと、彼は無表情で、斜め下を向いていた。…泣いている?

"泣いている表情"だと読み取ることもできなくはない。まあ、雨が降っているから分からないけど。


「…そうですよね。雷の心配もありますし、室内へ行きましょう」


彼は俯きながらそう言い放ち、、スタスタと歩いて行ってしまった。

私も彼に続き、受付の室内へと入る。すると、お爺さんがタオルと浴衣を持ってゆっくり歩いてきてくれた。


「どうぞ。温泉も是非お使いください」


「ありがとうございます。じゃあ私、温泉入ってきます。翠くんも、風邪引かないように、入ったほうがいいですよ」


私はそう伝えて、女湯の方へ冷え切った足を向かわせる。本当は彼が気になって仕方なかったけど、振り向かないことにした。

…また、話せるかな。話せるといいな。


――――――――――――――――――――


温泉から出て、広い休憩スペースに腰を下ろした。翠は…見当たらない。まだ温泉に入ってるのかな。ていうか、温泉入ってるの?


そう考えながら辺りを見渡していると、机からコトッと音がした。目を向けると、ガラス瓶の可愛らしい柄をしたコーヒー牛乳が置かれていた。


「よければ、どうぞ」


差し出し主は…翠だった。


「…え、いやいや、そんな。私何もしてないのに受け取れません…」


手を前に出して断るけど、彼は“どうぞ”と言わんばかりに微笑んでいた。

浴衣姿ってこともあるのか、先ほどとは雰囲気が一変している。…かっこいい。


「いや、色々してくれましたよ。貴方がいなければ、僕は崖から落ちて死んでいたかもしれない」


彼はフルーツ牛乳の瓶をクルクル回しながら、小さく語る。…そして、視線が合う。


「あ、どっちがいいですか?これと…それ」


「…コーヒー牛乳で。ありがとうございます」


私はコーヒー牛乳の蓋を開ける。ポンッと音がなり、甘いコーヒーの香りが微かに漂うのが分かる。

そして一口飲む。温泉から上がった後だからか、すごく美味しく感じた。


すると、翠は照れ隠しのように頭をかき、私の顔を覗き込んだ。

その顔はかっこよくて、ビクッと身体が跳ねてしまう。


「あの、変なこと聞きますけど…僕のファンだったりしますか?」


その瞬間、私は吹きそうになったコーヒー牛乳を手で抑え込む。無理やり飲み込み、空気が喉を伝う感覚。咳が出た。


「えっ…何で…」


「いや、さっき“翠くん”って呼んでくれてたので…あ、違ったらすみません」


嘘…無意識だった。どうしよう、引かれたかな。しかも“くん”付け。絶対、キモいと思われた。言い訳は…きっと通用しない。


「そう…ですね。すみません、馴れ馴れしく」


「いやいやそんな!逆に嬉しいです。ありがとうございます」


彼はニコリと微笑み、フルーツ牛乳をゴクゴクと飲み進める。その時、窓から赤い光が差し込んだ。

ドアがガチャリと開き、青い服を着た…警察が数名入ってくる。


「警察です。古城さんいますか?」


「あ、はい!います!翠く…いや、えっと…い、行きましょう」


私はコーヒー牛乳を机の上に置き、警察の方へ向かう。


「行方不明なのは…晴美さんでしたよね。

晴美さんとはどのような関係で?」


「一応…他人です。あ、彼の妻です」


私は翠に手を向け、警察に説明する。

すると、彼は私の前に立ち、警察との距離を徐々に縮めていく。


「鈴原香珠です。妻は鈴原晴美…晴美は、

見つかりましたか?」


そう訴える彼は、今にも涙が零れ落ちそうなくらい涙目だった。震える声で、唇を噛みながら必死に。


「只今捜索中です。色々情報をお聞きしたいのですがよろしいでしょうか?」


「構いません。彼の方が詳しいとは思いますけど…」


チラリと彼の方へ視線を向けると、彼もこちらに視線を向ける。少し悩んだようだが、すぐに口を開いた。


「一応…一緒にいいですか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る