怪物たちの片鱗

 人が自然と空間を開け、男の前に道ができて行く。どこか宗教上の出来事のように。


 コツコツと、硬いブーツが床を叩く音は軽快なはず。それなのに、音は異様に重く聞こえた。


 階段を登りステージに上がったのは、20代前半であろう黒ずくめの男だった。

 乱雑に切り揃えられた短い髪の中で、顔の片側で不自然に前髪の束が揺れている。


 本当に全身が真っ黒だ。傷んだ服も、髪も、瞳の色も。その瞳の奥には、底なしの深い闇を覗き込んだような、仄暗い光が宿っている。


 嫌な存在感がある男だと思った。

 玲は自分の指先が微かに震えていることに気づき、強く拳を握り込む。

 存在を認識しただけで、辺りの空気が冷えたような錯覚に陥る。発せられているのは単なる殺気ではない。あれは狂気に近いだろう。


 腰にあるのは黒光りする鞘に収まった一振りの刀。

 彼の浮かべた笑みは寒気がするほど不気味だった。笑った口の端が三日月型に吊り上がっている。

 そしてその左頬には、幾何学模様のような黒い刺青。なぜかそこに、自然と目が引きつけられた。


「……あれ、黒井くろいオウヤだ」


 隣にいた火狩が苦々しく呟くのが聞こえた。


「知ってるのか」

「少しだけどね……」


 火狩の頬にはわずかに汗が伝っていた。引きつった声には、隠しようのない静かな恐怖が滲み出ている。


「噂しか聞いたことないけど、その手の世界じゃ有名な殺し屋だよ。快楽を求めて殺人やってるヤバい奴って話。

 あいつに殺された死体は、いつもめちゃくちゃに切り刻まれた状態で見つかるってさ」


「…………へぇ」


「軍が全国的に指名手配してるはずだけど、まさか堂々と出てくるなんて……。あんな奴まで参加してくるのは、ちょっと予想外だったかもしれない」


 乾いた笑いを漏らす火狩を他所に、玲はステージ上の黒井を静かに見つめた。

 何気なくふらっと立っているようだが、隙がないのは確かだろう。身体つきは細身で筋肉質とは言えないが、ひょろひょろとした印象はない。身長は目測で180近くある。


 他のプレイヤーを見下ろして歩く彼の顔には、作り物めいた気味の悪い微笑が浮かぶ。そんな表情ができるくらい、余裕があるということだ。緊張感はまるでない。


 本能的に避けたい相手だ。不自然な狂気が、彼の全身から滲み出ている。


 喧騒の中、玲の首筋がチリリと焼けるように粟立った。

 

――視線を感じる。


 何気なく顔を上げた先、男はステージ上からはっきりとこちらを見つめていた。

 気のせいだと思いたかったが、逸らすこともはばかられる。仕方なくじっと見つめれば、相手も逸らすことをしない。


 ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。


 玲はステージからかなり離れた場所にいた。

 ただ、それでもわかる。黒い瞳の奥に、深々と底知れない闇が渦巻いていること。


 玲は奥歯を強く噛み締める。ここで目を伏せれば、弱みを見せることになる気がした。

 意識して拳に力を込める。足が震えそうになるのを無理やり意志で押さえつけた。


 その瞬間、「へぇ」っと、黒井の口が動く。興味深そうに目を細めると、彼は意味深に笑って玲から直ぐに視線を外した。


 いや、外す直前。

 彼の唇が、音のない言葉を紡いだのを、玲は見逃さなかった。


――キミだね、と。


 確かに、そう動いていた。

 玲はごくりと息を呑む。身体を冷たい蛇が這いあがってくるような、生理的な嫌悪感が駆け上がる。


 威圧されているわけではない。ただ胃の底から不快感が込み上げ、不思議と悪寒が止まらない。玲は吐き気を堪えるように口元を覆った。


 目をつけられた、かもしれない。そう考えると強い不安が込み上げる。気づけは手汗が滲んでいた。

 その時だ。


「何番ですか?」


 静寂を貫いたのは、御堂の鈴を転がすような問いかけだった。

 黒井は退屈そうに首を傾げ、うーんと気の抜けた声を漏らす。御堂は平然と黒井の回答を待っていた。


 ただでさえ異様な雰囲気を纏っている上に、あの男は軍の指名手配犯だ。そんな危険人物を前に態度を崩さない御堂の度胸に、思わず感心してしまう。


 玲は知らず知らずのうちに自分の胸に手を当てていた。

 あの男の前に立って、自分は御堂と同じように平常心でいられるだろうか。大きな音を立てる心臓を前に、正直自信が持てなかった。


 ホールの視線を一身に集め、黒井は僅かに目を細める。


「ダイヤか、クラブか……まあスペードのキングでいいや。88番」


 さらりと何事もないように、タグのマークと数字まで口にする。その言葉は投げやりだったが、確信に満ち、迷いもなかった。


 宣言を受け、モニターの中で88番の箱の画像が開かれる。演出と共に5枚のタグが現れた。


 瞬間、驚愕と感嘆が混じった大きなざわめきがホールに満ちた。


 だが、玲の耳にその喧騒は遠い。

 釘付けになったのは、御堂の唇に刻まれた満足げな笑みだ。

 やはりこの状況、すべて彼女のシナリオ通りか。


「お見事ですね」


 御堂は言う。開いた中には、確かにスペードのキングの絵柄があった。


 玲は無意識に口元を歪める。シャッフルの速度は常人が見切れるものではなかったはずだ。それをこんな簡単に。しかもあいつ、明らかにタグの種類を選んでいた。

 考えるほどに嫌な予感が沸き上がり、つい額を指で押さえる。


 あの男は、危ない。殺し屋の肩書を抜きにしても、まず接触は避けたい相手だ。


「はい!」


 喧騒が尾を引く中、凛とした声が響き、また一人の手が挙がった。


 黒井は興味なさそうに欠伸をしながら、悠々とステージを降りていく。入れ替わるように、刺すような視線を黒井に浴びせながら壇上へと現れたのは、まだ幼さの残る少し小柄な少年だった。


 目を引くのは、一点の曇りもない真っ白な軍服。汚れ一つない布地は、このホールの中で異様なほど浮いている。

 軍帽の影から覗く鮮やかな金髪は天然物だろう。火狩のような人工的な派手さではなく、艶のある光沢を放っていた。


 間違いなく軍関係者だと予想できるが、その年齢はあまりにも若かった。見た目的には10代半ばでしかない。

 玲は首を傾げて少年のことを観察する。立ち振る舞いも、気張って背伸びはしているようだが、どこか幼さが隠せていない。

 あんな子供まで、軍は登用しているのか。


「軍は世襲が進んでて、物心ついた時から戦闘訓練やらなんやら叩き込まれるらしいよ」

「へぇ……」


 隣にいた火狩は皮肉めいた響きを混ぜて呟いた。


「表には出てきにくいけど、別に子供も珍しくない。英才教育なんだろうね。オレはどうかと思うけど。……見て」


 促されるまま、玲はステージの下に目を向けた。そこには少年と同年代であろう、同じ意匠の白い軍服を纏った少女が不安げな顔をして立っていた。

 彼女の髪もまた、光を透かすような鮮やかな金。この国に住む大半の国民の容姿から考えれば、彼らの関係性は明白だろう。


「兄妹かな」

「多分な」


 火狩の言葉に頷いている間に、少年は迷いのない足取りで御堂の前へと進み出る。


「145番をお願いします」


 モニターの中で、指定された箱が静かに開く。中から現れたのは、ダイヤのエース。

 またしてもキータグを言い当てたその事実に、ホールはどよめきに包まれる。


 少年は、御堂から手渡されたタグを握りしめると、一目散に階段を駆け下りていった。

 向かった先は少女の元だ。少年と視線が重なると、彼女は安堵の笑みを零す。少年は照れくさそうに苦笑しながら、その柔らかな金髪を愛おしそうに撫でていた。


 互いを大切に想い合っているのだろう。

 言葉がなくとも伝わってくる。


 その光景が、玲にはひどく眩しく見えた。まるで遠い世界の出来事のようで、羨ましいとも思ってしまう。


「…………」


 玲が言葉を飲み込んだのと入れ替わりに、ステージへと現れたのは、長身の男。


 使い古され使い古された黒のコートにスラックス。動くたびに、胸元の銀のネックレスが鈍い光を反射して揺れる。


 無言でステージに登った彼は、御堂に対し、静かに、そして丁寧に頭を下げた。


 顔の半分を隠すような長い前髪。凛とした佇まいはどこか古風な武人を思わせ、同時に、消えてしまいそうなほど儚い雰囲気を纏っている。

 それが外見だけの錯覚であることは、玲の直感が告げていた。


 男が発するプレッシャーは、先ほどの黒井と大差ない。

 それほど重く、鋭かった。


 ただ黒井の存在感が凶暴性に満ちた暴力的なものだとしたら、この男のそれは、深い水底から湧き上がる水源のように静かで冷たい。

 その静謐な空気感は、どことなく、――懐かしい。


 携えた得物は、黒井と同じく一振りの刀だ。だが、黒井の鞘が闇を溶かしたような黒だったのに対し、男の鞘は象牙のように白かった。

 デザインも似ているように感じられ、もしかすると対なのだろうかと、そんな疑念が頭をよぎる。


「2番。ジャック」


 男はそう口を開いた。低く、抑揚を排した声。

 言葉に呼応し、画面のカードが開かれる。現れるのはクラブのジャックだ。


――あの男にも、見えていた。

 

 玲はスッと目を細める。同時に少し、頭痛がした。


「っ、……」


 額を抑えてその痛みをやり過ごす。突き刺されたような脳の痛みを堪えながら、玲は静かに息を吐いた。


 その時、ステージを降りる男の視線が、ふらりとこちらへ向けられた。

 長い前髪の隙間から覗く左目。色素の薄い灰色の瞳は、光を反射せず、濁った硝子玉のように沈んでいた。生気も意志も残っていない。一切の感情が読み取れなかった。


――見えていない……?


 玲がそう考えてまもなく、男はすぐに視線を伏せると、逃げるように人混みへと消えていった。玲は無意識にパーカーの裾で手のひらを拭う。


 残されたのは、理由のわからない胸のざわめきだけだった。


 黒井とはまた違う得体のしれない存在を前に、荒くなった呼吸を整える。


 彼への警戒も、怠ることはできない。少なくとも意識しておくべき存在だと整理をつけた。

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