薄氷

白の王様

 コンクリートの壁は崩れ、壁からは剥き出しの鉄骨が覗いている。

 手入れされず腐食が進んだ建物に、ひび割れの多い道路群。

 この街にあるのは灰色ばかりだ。


 油と埃が混じった匂いがする。どれだけ掃き溜めで過ごしてきても、この空気は好きになれない。

 溜まった不快感から逃れるように、氷上ひかみれいは足で強く地面を蹴った。


 重力から逃れて宙に浮く。その感覚は好きだった。地上の埃っぽさから少し、解放された気になれるから。


 いつもよりも月が近く見えるのも好きだ。このままもっと高く跳んで、先まで行けたらどれほど良いか。絵空事だとわかっていても、望まずにはいられない。


 宙返りを経て、吸い付くような軽い動作で着地する。

 音もない。顔を上げれば、正面では岩のような体躯の男が呆然と立ち尽くしていた。


――間抜けな顔だ。


 そんな思考も、熱狂する観衆の怒号の中に掻き消える。


 広がる夜に星はない。壊れかけた街灯がチラつき、廃れた街を照らしている。その光は、路地裏に集う野次馬たちの顔を不気味に浮かび上がらせた。


 彼らの目には、不躾な好奇心が満ちている。


 相手の男の呼吸が聞こえる。周囲の歓声は無理やり意識から外してしまう。

 空気の匂いは埃っぽい。年中日陰な場所特有の湿っぽさも感じられる。景色は大抵、昼も夜も変わらない。


 そんな世界に、一筋の鋭い光が差し込む。

 先ほど投じていた銀の刃が月光を反射し、夜空を裂いて落ちてくる。

 

 空中で弧を描く銀の軌道を見据える。

 玲は脳の意識を一段、深い場所に沈めていく。


 パチリとスイッチが切り替わる。


 瞬間、世界の色はより鮮明に、映像は精細なスローモーションに変化した。


 夜風に舞う塵の一つ一つ、明滅する街灯。

 月光を弾くナイフの軌道。

 相手の重心、表情、筋肉の収縮。

 逃げ場を探す瞳孔の揺れ。


 全てが情報の濁流となり、脳に流れ込んでくる。


 自分は、そういうものとして作り変えられた存在だ。人を超えて、戦う力を植え付けられたはぐれ者。


 降ってくるナイフへ手を伸ばす。指先が柄に触れ、皮膚が革の感触を捉える。数年連れ添った無骨な愛刀は、自身の延長のように掌へと吸い付いた。


 握る手に力を込める。

 強く地面を蹴り、ゼロスピードから一気に加速。

 息もつかせず間合いを詰める。

 身体を捻り、勢いをつけて回し蹴りの体勢へ。


「っ、」


 風を切る音が一筋響く。

 狙ったのは顔面だ。蹴りを躱そうと、対戦相手の身体は後ろへ大きくのけぞっていく。

 その表情もしっかりと目で捉えながら、重力に任せ左足を軸に着地。軽いステップで衝撃を受け止め、間髪入れず、真っ直ぐ相手へ突進する。


「……っ!」


 反応の遅れた相手が放った右手の刃は、身体を低くして最小限の動作で避ける。

 一度地面に手をつけ、足払いで相手を転がす。

 体勢を崩した相手の表情に動揺が走る。

 派手な衝撃音と共に背中から倒れた男に跨りマウントをとる。

 玲は即座に手足を押さえ、ナイフを喉元へ突き立てた。


「ひっ!」


 刺さる直前でぴったりと刃先を止めてやれば、相手は情けない悲鳴を漏らす。


 あと数ミリ動かせば、このナイフは相手の皮膚を切り裂ける。少し力を加えるだけで簡単に殺せる。

 それを頭で理解しながら、実行には移さない。移せない。


 いくら歪んでどうしようもない世の中でも、殺人は重い罪に変わりないと理解していた。そうでなくとも、人の命は自分が背負うには重たすぎる。ナイフ越しに感じる相手の呼吸に、玲はふっと息を吐いた。


 人を殺すために作られた怪物にはなりたくなかった。だから奪う気は、毛頭ない。


「勝者、玲!」


 審判役に勝者がコールされた瞬間、周囲の人間がわっと湧く。戦いの中で遮断していた音が耳になだれ込んでくる。

 歓声、指笛。どれもこれも雑音ばかりだった。耳障りで仕方ない。


 周囲の熱気とは裏腹に、玲の感情は冷めていた。

 野太い声に顔を顰めながら、相手だった男からナイフを外して立ち上がる。

 泡を吹き始めそうだった男は、玲が退いたことでようやく呼吸を取り戻す。引きつった音を立て荒く胸を上下させながら、彼は必死に酸素を求めた。


 玲はぼんやりと男のことを見下ろした。


――歯ごたえなかった。


 ナイフを腰のホルダーに収め、審判を買って出ている長髪の男へと足を向ける。


 高揚感はない。

 心臓は一定の速度を保って静かに動く。肌を撫ぜる風が、僅かな興奮もなかったことにして奪い取っていくようだった。


「うへぇ、流石は"シロ"。すげえ戦い方。動き速すぎて全然見えねぇ」


 ふとそんな声が耳についた。


「あんなん見ると賭ける気にもなれねぇよ。圧倒的すぎ。どうせあいつが勝つに決まってる」


「本当に人間かって感じだよな。あの白髪も赤い目も異常だろ……気味が悪い」


「ああ、バケモンみてぇ」


「違いねぇな。案外宇宙人とかなんじゃね?」


 そんな会話の後には茶化すような笑いが続く。

 喧騒の中で、彼らの会話だけが何故かクリアに聞こえてしまった。ざらりとした不快感が背筋を撫でる。


 無意識に漏れたため息に気づかれたのか、視線を向けると、二人組の男は肩を大きくビクつかせた。


「おっ、い。もう行こうぜ……」


「ああ……」

 

 逃げるように目を逸らされる。


 まあ別に、特に何か言うつもりはない。

 気持ちの良いものでもないが、もうとっくに諦めている。できるならこの場所から早く抜け出したいのが本音だった。


 慣れた疎外感を飲み込みながら、足早に審判の元へ向かう。

 ゆうに190センチはありそうな審判に対し、玲の身長は170センチと少し。必然的に見上げる形になるが、玲がその赤い瞳を向けた瞬間、大男はまるで自分が見下ろされているかのように顔をピクリと引きつらせた。


「優勝おめでとう」


「……どうも」


「これが、今回の賞品だ」


 渡されたのは縦長の紙袋と、薄汚れた一枚の紙。

 袋の中にあるのは、この辺りでバイトして大体一週間分はあるだろう額の金だった。これだけあれば当面の生活は困らない。


 ただ、今日の目玉は金ではない。

 問題はこの紙切れの方だ。


 玲は指先で紙の感触を確かめる。分厚く、破れにくい質感だ。少なくともお遊びで出回るようなものではないだろう。初めから多少乱雑に扱われることが想定された作りに思える。

 しかし念には念を入れて、玲は審判の男を睨み上げる。


「ホンモノか?」


 威圧するように尋ねれば、男は慌てて声を張る。


「ほっ、本当にホンモノだ! 間違いなく、"あのゲーム"の紹介状だ!」


 間違いない、と念を入れられ、玲はふっと息を吐く。


 まあ実際、彼に尋ねたところでこの紙が本物かどうか判断がつくことはないだろう。そもそも"あのゲーム"の存在自体が眉唾ものだ。噂の内容からして現実にあるとは信じ難い。

 玲は紙に書かれた文字を確認しながら、受け取った金をパーカーのポケットに突っ込んだ。


 踊らされているならそれでも良い。

 なんにせよ、一定の生活資金を手に入れたことには満足している。


 立ち去ろうと踵を返し、玲は人混みの方へ足を向けた。一歩足を踏み出すたび、自然と人が避けて道は開ける。


「なぁ!」


 呼びかけられて足を止めた。振り向くと、審判をしていた男はひどく緊張した面持ちをしている。


「お前、本当にそのゲーム参加するのか」


 こわばった声で尋ねられ、玲は怪訝な顔をした。

 何故、そんなことを聞くのだろう。

 本当に参加するか、なんて、何を今さら言っているのか。


「……気が向いたら」


 軽く答えて踵を返す。

 吐いた言葉は嘘だった。

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