薄氷の定義

アトヤ

プロローグ -停止-

 視界があまりに鮮明すぎて、吐き気がした。


 玲の瞳が捉えるのは、目の前で収縮する男の瞳孔と、そこから溢れ出す底なしの愉悦。

 そして歪んだ執着心。

 見たくないものばかりが鮮やかに映し出されている。

 

 この倉庫の壁の向こう側、狂ったゲームフィールドのどこかで、誰かの死に際の呼吸が聞こえてくるような気がした。

 

 玲はおずおずと、震える手の中を見下ろした。

 胸元にある4枚のプレート――ドッグタグが、鉛のように重く感じる。


 ダイヤのクイーン、

 スペードのジャック、

 クラブのキング、

 そして血に濡れたハートのエース。


 この小さな金属片に、数百人の命が載せられている。目の前の男が強制的にベットしたのだ。


 そしてその行き先を、こいつは俺の善悪の天秤に委ねている。


「さあ、あとは好きに選びなよ。レイくん」


 頬に触れる指先は酷く冷たい。

 低く、甘い声が鼓膜を直接侵食してくる。這い上がる嫌悪感に背筋が泡立ち、気づくと冷や汗が流れていた。


 男の頬に刻まれたタトゥーを前に、玲はただ浅い呼吸を繰り返す。

 かつて同じ研究所にいた、異様な身体能力を無理やり与えられた同類の証が、指をぴくりとも動かなくさせる。

 本当なら今すぐにでも、こいつを終わらせた方がいい。それなのに、……動けない。


 この場所では香るはずもない薬品の匂いが鼻をつく。鉄錆の匂いの中に、記憶が勝手に、冷たい香りを混ぜてくる。

 白い天井に薄暗い部屋。

 消毒液の匂いが混じった空気。

 与えられた痛みの数々。

 その全てが、玲の脳裏を駆け巡る。


「よく考えてね」


 鼻歌でも歌うように男は言う。どんな人間でも躊躇いなく切り捨ててきた殺人鬼が、慈愛すら感じさせる目でこちらを見ている。


「誰を道連れにしたいか、誰を俺に、……殺させたいか」


 容赦のない問いかけが逃げ場を消す。

 底の見えない黒い瞳に飲み込まれるようだった。思考が白く染まっていく。


 わかっている。この男は普通じゃない。

 こちらの決断によってはいとも容易く、誰の命でも、一切の躊躇なく奪うだろう。


 15億という対価に誰の血を捧げるか。

 

 しかし与えられた選択肢のどれを選ぼうと、その先に続くのは地獄だけだ。

 激しい動悸が指先まで痺れさせる。


 玲はただ、震える手で4枚のタグを握りしめた。

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