エピローグ:アダムとイブ

「あら、目が覚めた?」



鈴を転がすような声が、鼓膜を優しく撫でた。

目を開けると、視界いっぱいにマリアの顔があった。

彼女は俺を膝枕したまま、愛おしそうに前髪を梳いている。


ドレスからはあの惨劇の血痕が消え失せ、雪のように輝く純白に戻っていた。

背中にあった異形の翼も、周囲を蹂躙していたルシファーの触手も見当たらない。



ただ、静かだった。

あまりにも静かすぎて、自分の耳が壊れてしまったのかと錯覚するほどだ。


「……ここは、どこだ」


「私たちの家よ」


マリアは上半身を起こし、何もない虚空を指差した。

地平線の彼方まで、ただ白い砂漠が続いている。

空には太陽の代わりに、淡い光の帯が揺らめき、永遠の黄昏のような明るさを保っている。


かつてここに街があったことなど、もう誰も思い出せないだろう。

瓦礫も、死体も、人々の営みも、すべてが微細な白い砂粒に還元されていた。


「静かでしょう?誰も怒鳴らないし、誰もお金を要求しない。……ねえ、聞こえる?世界が呼吸を止めた音」


「……ああ。静かすぎて、耳が痛いよ」


俺は乾いた唇を舐めた。

喉が渇いているはずなのに、不思議と渇きを感じない。空腹感もない。

俺の肉体もまた、彼女が作り変えたこの白い世界の理に組み込まれてしまったのかもしれない。


思考を巡らせようとすると、脳の奥に白い霧がかかったようにぼやける。

正常な判断を拒絶するように、防衛本能が現実から目を逸らさせているのだ。



「お腹、空いたでしょう?」


マリアの手には、いつの間にか真っ赤な林檎が握られていた。

かつて収穫祭の夜、路地裏で分け合ったあの林檎に似ていた。


だが、これは傷ひとつなく、蝋細工のように完璧な球体をしている。

彼女はナイフを使わず、白い指先で林檎の皮をスルスルと剥いていく。

赤い皮が白い砂の上に落ちると、まるで鮮血が滴り落ちたかのように見えた。



「はい、あーん」


差し出された果肉を、俺は拒めなかった。


口に含むと、強烈な甘みが広がった。

砂糖菓子、あるいは麻薬のような、脳を直接痺れさせる甘さ。

それを咀嚼しながら、俺はあの日、雪の中で彼女を拾った時のことを思い出していた。

あの時、俺が願った【掃除】は、こんな結末を迎えるためのものだったのか。


「なあ、マリア」


「なあに?」


「お前は……この世界が、そんなに憎かったのか?」


俺の問いに、マリアはキョトンとして目を丸くした。

そして、くすりと笑った。


「憎い?まさか」


彼女は剥き終わった林檎を、宝物のように撫でた。


「憎むほどの価値もないわ。……どうでもよかったのよ、最初から」


「どうでもいい……?」


「ええ。人間がどうなろうと、国がどうなろうと、興味なんてなかった。

 私にとって世界なんて、あなたと私が生きるための『背景』に過ぎなかったもの」


マリアは俺の胸に手を当て、心臓の鼓動を確かめるように掌を押し付けた。


「でも、その背景があなたを傷つけるなら話は別よ。

 舞台セットが主役を邪魔するなら、壊して作り直すしかないでしょう?」



彼女は世界を救うために聖女になったのではない。世界を滅ぼすために悪魔を呼んだのでもない。


ただ、俺という個体を守るためだけに、その他一切を排除した。

彼女の天秤の上では、全人類の命よりも、俺の頬についた泥を拭うことの方が重かったのだ。



「私は聖女失格ね。……だって、世界なんて少しも愛していなかったんだもの」



マリアは悪戯っぽく舌を出した。

その顔は、八年前に俺の背中にしがみついていた、ただの孤独な少女のままだった。


世界を滅ぼした大罪人が、こんなにも無邪気な顔で笑っている。

その事実に戦慄するべきなのか、それとも、ここまで愛されたことを喜ぶべきなのか……。


逆らおうにも、もう俺たちの足元以外に大地はない。

彼女を否定すれば、俺は虚無に落ちるだけだ。



「さあ、残りも食べて?」



マリアが残りの林檎を俺の口に押し込む。


俺はそれを飲み込んだ。

甘い。酷く甘い、罪の味がした。


もう戻れない。ここには俺と彼女しかいない。

俺を咎める者も、彼女を裁く者も、もうどこにもいないのだ。


「ふふ、いい子」


マリアは満足そうに目を細め、俺の首に腕を回した。

彼女の白い髪が、カーテンのように俺の視界を覆い隠す。


そこにはもう、死体の山も、血の海も見えない。

ただ、彼女の甘い匂いと、永遠に続く静寂があるだけだ。


「愛しているわ。……この終わってしまった世界で、死ぬまで、いいえ、死んでもずっと一緒よ」



俺は彼女から目を逸らせなかった。

どこかでこの世界が滅びることを願っていた、俺自身の醜い願望の具現化が、この白い悪魔だ。

安堵と絶望が混ざった吐き気が込み上げる。



「……こんな結末は望んでいなかったと、今も思う」


乾いた喉から、やっと声が絞り出た。


「でも、お前が俺のために犯した罪だ。……俺もお前と同じ罪人(アダム)だ……、マリア」


「ええ、ええ……。この白い世界で二人きり、愛し合いましょう?」


彼女の瞳が鮮やかに輝いた。

それが、俺たちの罪の契約だった。


俺は震える手で、彼女を抱きしめ返した。

そうする以外に、俺に残された役割はなかった。




新たなアダムとイブは、誰もいない楽園で、永遠に暮らしました。

めでたし、めでたし。











-完-

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