第十四章:赤と白の契約

「おえっ……あ、がっ……」


胃の中身をすべて吐き出しても、痙攣は止まらなかった。



目の前に広がっていたのは、俺が知っている街ではなかった。

かつて人々が行き交っていた大通りも、俺が暮らしていた貧民街の長屋も、すべてが赤黒い肉の泥沼に沈んでいる。


家々はひしゃげ、白い菌糸のような脈動する根に覆い尽くされ、そこかしこから人間の手足が無数に突き出していた。


動くものはもういない。悲鳴も聞こえない。

ただ、巨大な何かが肉を咀嚼するような、湿った水音だけが風に乗って響いていた。



「大丈夫?まだ気分が悪い?」


背中をさする手が、恐ろしいほどに優しい。

彼女は血の海を歩いてきたはずなのに、その足元には汚れひとつ付いていなかった。


まるで世界そのものが、彼女を汚すことを恐れて避けているかのようだった。

俺は口元を手の甲で拭い、震える声で問うた。



「……なんでだ。なんで、ここまで……」


「中途半端じゃ意味がないもの」


マリアは俺の隣にしゃがみ込み、瓦礫の下の千切れた腕を……指輪の形からして、顔なじみのパン屋の親父のものを無造作に踏みつけた。


「毒は根元から断たないと、またすぐに生えてくるわ。

 人間という種そのものが、あなたを不幸にする毒なのよ」


「っ……俺のためだって言うのか?この大虐殺が?」


「ええ。そうよ」


彼女はきょとんとして首を傾げた。その表情には一点の曇りもない。

純粋な善意だけがそこにあった。


「あなたが言ったじゃない。『神様でも悪魔でもいいから、掃除してくれ』って。

 ……だから私、必死に育てたのよ」


彼女が指差した先、遥か彼方で雲を突き抜けるほど巨大な白い影……

【ルシファー】と呼ばれた怪物が、隣国の山脈をスプーンで掬うように削り取っているのが見えた。



「教会の地下で、八年間。毎日毎日、信者たちが捧げる祈りを餌にして、あの子を太らせてきたの。

 みんなが『救われたい』と願う欲望が、あの子の一番の栄養だったわ」



俺は言葉を失った。



あの奇跡も。

あの献身的な祈りも。


すべては民衆を救うためではなく、民衆を「餌」として効率よく集めるための牧畜だったというのか。


免罪符を買った老人も、マリアに縋り付いた病人も、彼女にとっては家畜が餌を食べて太っていく過程に過ぎなかったのだ。



「奇跡なんて、種明かしをすれば簡単なことよ。

 魂の一部を削り取って、捧げる代わりに、肉体の痛覚を麻痺させていただけ。

 ただ、痛みを感じなくさせて、死ぬまで搾取していただけなの」



マリアはクスクスと笑った。

無邪気な少女の笑い声が、死に絶えた廃墟に木霊する。


「みんな幸せそうだったでしょう?痛みも消え、天国に行けると信じ、最後はあなたのために役立って死ねたんだもの。これ以上の救済はないわ」


「狂ってる……」


「狂っているのは世界の方よ。力の弱い者が虐げられ、正直者が馬鹿を見る。

 そんな世界を壊して何が悪いの?」


マリアが立ち上がり、両手を広げた。

その背中の骨の翼が、夕焼けよりも赤い空に映える。



「見て。もう誰もいないわ。司教も、王様も、借金取りも、あなたに石を投げた群衆も。

 ……ここにあるのは、私たち二人だけの静寂よ」



確かに静かだった。


ルシファーが遠くへ去り、破壊の音が遠ざかると、後には風の音しか残らなかった。



俺を縛り付けていた身分も、貧困も、明日の不安も、すべてが物理的に消滅していた。


だが、その代償がこれだ。

人類という種の絶滅。

俺の足元は、俺と同じ言葉を話し、同じように笑っていたはずの人々の成れの果てでぬかるんでいる。



「……俺は、こんなこと望んでなかった」


「望んでいたわ。あなたの魂が叫んでいたのを、私が聞いたもの」


マリアは俺の頬を両手で包み込み、無理やり自分の方を向かせた。

視界いっぱいに、彼女の美しい顔が広がる。その瞳には、俺以外の何物も映っていない。



「神様はあなたを救わなかった。でも、私は救った。……どっちが正しいかは、明白でしょう?」


反論できなかった。

結果だけを見れば、俺は生き残り、俺を害した者たちは死に絶えた。


──もし、マリアが力を持たず、結婚式が完遂していた世界線の俺なら、もしかしたら、きっと……。



俺は膝から力が抜け、その場に座り込んだ。

マリアが俺の首に腕を回し、抱きついてくる。

血と死臭の中で、彼女の体温だけが温かかった。



「さあ、行きましょうアダム。……楽園は、まだ作りかけよ」



彼女が指を鳴らす。

周囲の肉塊や瓦礫が、白い砂となって崩れ始めた。


グロテスクな赤色が、徐々に純白の結晶へと上書きされていく。

死体で作られた花畑。血で染まった川。


それは地獄でありながら、吐き気がするほど美しい、狂気の箱庭だった。



俺は彼女に抱きしめられたまま、終わってしまった世界の空を見上げた。

そこにはもう、太陽すら昇らないのかもしれない。




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