第十三章:ソドムとゴモラに塩の柱を
音が、止まった。
つい先刻まで大聖堂の空気を震わせていた断末魔も、骨が砕ける硬質な音も、肉が濡れ雑巾のように絞られる音も。すべてが唐突に途切れた。
あまりの静寂に、耳がキーンと鳴る。
俺は柱の陰で膝を抱えたまま、呼吸をするのも忘れていた。
目の前にある光景が、脳の処理能力を遥かに超えていたからだ。
赤。赤。白。そして赤。
視界のすべてが、原色の絵の具をぶちまけたように塗り潰されている。
そこにあったはずの参列者たちは、もうどこにもいない。
壁にへばりついた肉のシミになり、床に散らばる内臓の破片になり、あるいは白い塩の山に変わっている。
「う、ぷ……っ」
胃袋が痙攣し、俺は足元の血溜まりに何度も吐いた。
これは夢だ。悪夢だ。そうでなければ、俺がおかしくなってしまったんだ。
だって、あんな化け物が……あの白い異形が、俺のマリアであるはずがない。
「……終わったわ」
ヒールが、ピチャリと血を踏む音がした。
顔を上げたくなかった。見たくなかった。
だが、生存本能が強制的に視線を上げさせた。
そこに、彼女はいた。
純白だったドレスは、鮮血でどす黒く染まりきっている。
背中から生えた骨の翼は、まだ脈打つように蠢き、先端からポタポタと赤い雫を垂らしている。
なのに、顔だけは。
返り血で赤く染まったその顔だけは、いつものあどけない少女のまま、俺を見て微笑んでいた。
「ひっ……!」
俺は悲鳴を上げて後ずさった。
背中が冷たい石柱にぶつかる。逃げ場がない。
「こ、来ないでくれ……!お前、なんなんだ……化け物……!」
「化け物?酷いこと言うのね」
マリアはきょとんとして首を傾げた。
その手には、まだ誰かの千切れた腕が握られている。
彼女はそれを汚れた雑巾でも捨てるように、無造作に放り投げた。
「私はマリアよ。あなたのマリア。……ほら、綺麗になったでしょう?」
彼女が一歩近づく。
俺は足をバタつかせて逃げようとしたが、腰が抜けて力が入らない。
彼女は俺の前に跪き、血塗れの手を伸ばしてきた。
「やめろ、触るな……ッ!」
俺は彼女の手を払いのけようとした。
だが、恐怖で震える俺の手は空を切り、逆に彼女の冷たい指先に捕まえられた。
ヒヤリとした感触が、肌を伝う。
冷たい。死体よりも冷たい。なのに、その瞳に宿る熱だけが、異常なほどに高まっている。
「怖がらないで。これは全部、ゴミ掃除よ」
マリアは俺の手を自分の頬に押し当てた。ヌルリとした血の感触が俺の掌に広がる。
「あの豚みたいな司教も、色欲に塗れた王様も、あなたを馬鹿にした衛兵も。
みんな等しく、ただの肉になったわ。……ねえ、静かでしょう?」
「狂ってる……」
「そうかしら?私は、あなたが望んだ通りにしただけよ」
彼女は微笑みながら、周囲の惨状を見渡した。
「見て。あそこの白い山、私に石を投げたお婆さんよ。
……あっちの壁のシミは、あなたを殴った騎士かしら。みんな混ざり合って、もう誰にも分からない」
俺は嘔吐感をこらえながら、彼女の指差す先を見た。
そこにはもう「人間」の形をしたものは一つもない。
俺が知っていた人々が、言葉を交わした相手が、ただの有機物の残骸になっている。
それをやったのが、俺が守りたかった少女だという事実が、俺の精神を粉々に砕いていく。
「なんで……ここまでする必要が……」
「必要?あるわよ。だって、まだ足りないもの」
マリアが立ち上がる。
背中の翼がバサリと広がり、血飛沫を撒き散らした。
「ここだけ綺麗になっても意味がないわ。外にはまだ、あなたを傷つける可能性のある人間が何万人もいる」
「……は?」
「毒は根元から断つの。……世界中の人間を一人残らず消して、真っ白な更地に戻すまで、掃除は終わらない」
彼女の背後の空間が裂け、そこから這い出した白い触手が、大聖堂の壁を突き破って外へと伸びていく。
遠くから、新たな悲鳴が聞こえ始めた。
街の人々の声。
何も知らない、普通の生活を送っていた人々の絶叫だ。
「やめろ……マリア、やめてくれ……!」
俺は彼女の足に縋り付いた。
だが、マリアは俺を見下ろし、恍惚とした表情で俺の頭を撫でた。
「いい子ね。そこで見ていて。……すぐに、世界中を静かにしてあげるから」
彼女の言葉は、慈愛に満ちているようで、決定的な拒絶だった。
俺の言葉など届いていない。
彼女の耳には、俺の悲鳴さえも愛の言葉に変換されて聞こえているのかもしれない。
俺はガタガタと震えながら、ただ祈るしかなかった。
だが、神は死んだ。
目の前の悪魔が、神を殺したのだから。
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