第十二章:ラッパは鳴らない
「……いいえ」
「「「……は?」」」
大聖堂の空気が凍りついた。
司教が、老王が、貴族たちが、何が起きたのか理解できずに呆然とする中、マリアは静かに続けた。
「誓いません。……だって、こんな汚い世界、愛する価値なんてないもの」
彼女の手が、ドレスの胸元へと伸びた。
そこには聖典も、ロザリオもなかった。
彼女が取り出したのは、赤黒く脈打つ、生肉のようなグロテスクな塊だった。
地下書庫で見つけた「鍵」だ。
マリアはその肉塊を、ためらうことなく自らの心臓の上へと突き立てた。
「さあ……お掃除の時間よ」
次の瞬間、世界が白く弾けた。
~~~
鼓膜をつんざくような破砕音と共に、頭上のステンドグラスが一斉に砕け散った。
降り注ぐ無数のガラス片が、着飾った貴族たちの肌に突き刺さる。
悲鳴が上がるよりも早く、祭壇から噴き出した暴風が俺の体を吹き飛ばした。
石柱に背中を強打し、肺から空気が漏れる。
霞む視界の中で、俺は信じられないものを見た。
祭壇の中央に立つマリアの背中が、内側から食い破られるように裂けていたのだ。
「ギャアアアアッ!」
断末魔のような音を立てて飛び出したのは、剥き出しの白い骨と、血管が絡みついた濡れた皮膜。
巨大で、醜悪で、しかし見惚れるほど神々しい一対の翼だった。
ドレスの背中が赤く染まり、彼女の足元に鮮血の水溜まりが広がる。
だがマリアは痛がる様子もなく、恍惚とした表情で虚空を見上げていた。
「ああ、やっと……やっと出てこれたのね」
彼女が愛おしそうに呟くと、心臓に突き立てた肉塊が脈打ち、黒い泥のような奔流となって溢れ出した。
泥は祭壇を汚し、老王の足元へと這い寄る。
「な、なんだこれは!衛兵、衛兵!この女を殺せ!」
腰を抜かした老王が喚き散らす。
剣を抜いた衛兵たちがマリアに殺到しようとした、その時だった。
床に広がった黒い泥の中から、巨大な「腕」が生え出した。
人の腕ではない。関節がいくつもあり、先端には鋭利なカギ爪がついている。
その腕が虫を払うような動作で衛兵たちを薙ぎ払った。
グシャッ、という湿った音が響く。
鎧ごと中身を潰された衛兵たちが、血の飛沫となって壁に叩きつけられた。
「ヒッ……!」
悲鳴を上げたのは司教だった。
彼は祭壇の下に隠れようと這いずっていたが、マリアがゆっくりと視線を向けると、見えない力で空中に吊り上げられた。
「あっ……があぁっ!!」
「司教様。以前、仰っていましたよね」
マリアは血濡れのドレスの裾を引きずりながら、司教に歩み寄る。
「私には、ただ祈る以外に何の価値もないと」
「や、やめろ!悪魔め!神の罰が下るぞ!」
「神様なら、もう殺しました」
マリアが指をパチンと鳴らす。
その瞬間、司教の肥満した体が風船のように膨張した。
皮膚が限界まで引き伸ばされ、血管が浮き上がり、目玉が飛び出る。
「助け……!」
パンッ、と乾いた音がした。
司教だった肉塊が弾け飛び、内臓と脂が聖歌隊の子供たちの上に降り注ぐ。
だが、子供たちは逃げなかった。いや、逃げられなかったのだ。
返り血を浴びた子供たちの口が、耳まで裂けるように大きく開いた。
首の上が白い触手に変化し、彼らは人間ではない何かに変質し始めていた。
「さあ、始めましょう。ルシファー」
マリアが背後の空間に向かって手を差し伸べる。
亀裂の入った空間から這い出してきたのは、伝承にあるような美しい堕天使ではなかった。
それは、白濁した粘液を纏い、無数の目と口を持つ、不定形の捕食者だった。
俺たちが地下書庫の壁画で見た「蛇」などという生易しいものではない。
この世界を咀嚼し、消化し、排泄するために呼ばれた、純粋な暴力の具現。
~~~
大聖堂は阿鼻叫喚の地獄と化した。
逃げ惑う貴族たちを、触手が次々と捕らえていく。
捕まった者は悲鳴を上げる間もなく口へと放り込まれ、バリバリと骨を砕く音と共に飲み込まれていく。
あるいは、マリアの白い翼から放たれる光に触れ、瞬時に塩の柱となって崩れ去る者もいた。
「ひ、ひいいっ!開けてくれ!扉を!」
出口に殺到した人々が、扉を叩いて絶叫する。
圧死しそうな人混みの中へ、天井からシャンデリアが落下する。
潰れた人体の上を、這い出した魔物たちが這いずり回り、生き残った者を貪り食う。
鮮血の赤と、異形の白。
二色だけで塗りつぶされた世界で、マリアだけが楽しそうにワルツのステップを踏んでいた。
「綺麗……汚いものが、全部消えていくわ」
彼女が通った後には、血の跡すら残らない。
すべてが白い結晶のような砂に変わり、サラサラと崩れていく。
「うっぷ……おえぇぇっ!!」
俺は柱にしがみついたまま、嘔吐した。
これが、彼女の言っていた「掃除」なのか?
俺が軽い気持ちで口にした願いの、これが成れの果てなのか?
あまりにも残酷で、あまりにも救いがない。
俺の足元にも、黒い泥が迫ってきた。
逃げ場はない、俺も食われる。そう覚悟して目を閉じた。
(……?)
だが、いつまで経っても痛みは来なかった。
恐る恐る目を開けると、俺の周りだけ泥が避けて通っていた。
マリアがこちらを見ていた。
顔半分を返り血で染めながら、彼女は俺にだけ向ける、あの愛らしい笑顔を浮かべていた。
「大丈夫よ。あなただけは、特別だから」
彼女が人差し指を口元に当てる。
「ちょっとだけ目をつぶっていてね。すぐ終わるから」
その言葉は、まるで子供を寝かしつける母親のように優しかった。
だが俺の目の前では、逃げ遅れた老王が、巨大な顎に下半身を食いちぎられ、上半身だけで這いずり回っている。
現実と狂気が乖離して、俺の頭はおかしくなりそうだった。
マリアは再び老王に向き直ると、その首を無造作に掴み上げた。
「私の体をご所望でしたわね?……どうぞ、存分に味わってくださいな」
彼女の手から白い炎が噴き出す。
老王の首が炎に包まれ、灰になるまで焼かれた。
その灰すらも、彼女が息を吹きかけるとキラキラとした粉雪になって消えていった。
「ここのお掃除は終わりかしら?」
マリアは退屈そうに呟き、血の海と化した大聖堂を見渡した。
動くものはもう、ほとんどいない。
ただ肉を砕く音と、マリアの鼻歌だけが響いていた。
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