第十一章:迷える神の子羊

「ほら、歩け!聖女様の晴れ舞台だぞ」



背中を槍の柄で小突かれ、俺はよろめきながら大聖堂の重厚な扉をくぐった。


視界が一気に開ける。

高い天井、煌びやかなステンドグラス、そして鼻につくほど濃厚な香油の匂い。

広い身廊を埋め尽くしているのは、金糸銀糸で着飾った貴族たちだった。

彼らは薄汚れた俺の姿を見ると、まるで汚物でも見るかのように顔をしかめ、扇で口元を隠してひそひそと囁き合う。



「あれが噂の?」

「聖女様に付きまとっていた下民だとか」

「野蛮ね。こんな神聖な場に」



衛兵に両腕を掴まれ、俺は最前列の隅、石柱の陰へと引きずり出された。


無理やり膝をつかされる。

冷たい石床が膝頭に食い込むが、そんな痛みはどうでもよかった。


祭壇の前には、すでに「新郎」が待っていた。隣国の老王だ。


肖像画で見たよりもさらに醜悪だった。

贅肉に埋もれた目、脂ぎった肌、そして何よりも、若い肉体への欲望を隠そうともしない、下卑た笑み。


あんな男に、マリアが触れられるのか。

あんな男に、俺たちの聖女が犯されるのか。

内臓が煮えくり返るような吐き気が込み上げてくる。



「……静粛に!」


司教の声が響き渡り、パイプオルガンの重低音が大聖堂を震わせた。

入り口の扉が大きく開かれる。

逆光の中、純白のシルエットが浮かび上がった。



それはマリアだ。


彼女は、俺が見たこともないほど美しいドレスを纏っていた。


ふわりと広がるレースの裾、宝石が散りばめられたヴェール。

その姿は、まさに天界から降り立った天使そのものだった。


だが、その白さは、これから生贄に捧げられる羊の白さにも見えた。

彼女は長い真紅の絨毯の上を、ゆっくりと、一歩ずつ歩いてくる。


その足取りに迷いはなかった。俯くことも、震えることもなく、真っ直ぐに前を見据えている。


俺は声を上げようとした。

逃げろと、やめろと、叫びたかった。


だが、背後の衛兵が俺の首に剣を突きつけ、無言で制止する。

俺は喉の奥で悲鳴を殺し、ただ彼女を見つめることしかできなかった。



祭壇へ近づくにつれ、マリアの視線がふと動いた。

彼女は、柱の陰にうずくまる俺を見た。


目が合う。

俺は彼女が泣きそうな顔をすると思っていた。

あるいは、助けを求めるような目で見てくると思っていた。



だが、違った。

マリアは、俺を見て微笑んだのだ。

いつもの、俺だけに見せる少女のような笑顔で。

そして、ほんの一瞬だけ目を細めた。


それは別れの挨拶なのか、それとも俺への感謝なのか。


俺の目から、情けない涙が溢れ出した。



彼女は覚悟を決めている。

この身を犠牲にして、国を守るという聖女の務めを全うしようとしている。


俺はそれを見届けると約束した。

なのに、涙で視界が歪んで彼女の姿がよく見えない。



~~~



マリアが祭壇に到達した。

老王が満足げに彼女の手を取り、その甲にねっとりとしたキスを落とす。

マリアは人形のように無表情のまま、それを受け入れた。


「……美しき聖女よ。我が国へ来ることを、心より歓迎しよう」


老王の声が響く。


「さあ、誓いの言葉を。神の御前で、永遠の愛と服従を誓うのだ」


司教が聖典を開き、厳かに告げた。


大聖堂が静まり返る。数千の視線が、マリアの唇に注がれる。



俺は目を閉じたかった、耳を塞ぎたかった、いっそのこと死んでしまいたかった。

彼女が「誓います」と言ってしまえば、もう終わりだ。

マリアは俺の手の届かない場所へ、永遠に行ってしまう。



世界は残酷だ。

神はいない。

もしいるなら、こんな茶番を許すはずがない。

俺の絶望など知らぬげに、司教が問いかけた。



「聖女マリアよ。汝は、この方を夫とし、病める時も、健やかなる時も……

 これを愛し、敬い、慰め、助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓うか?」



長い、永遠にも感じる沈黙があった。

マリアはゆっくりと顔を上げた。

ヴェールの奥にある瞳が、ステンドグラスから差し込む光を受けて、奇妙なほど鮮烈に輝いた。


彼女は老王を見なかった。

司教も見なかった。

祭壇の十字架すら見なかった。


彼女はただ一点、柱の陰にいる俺の方をじっと見つめ、そして、にっこりと笑った。

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