第十章:エリ・エリ・レマ・サバクタニ

鉄格子が落ちる鈍い音が、俺とマリアの世界を隔てた。


婚礼の儀までの三週間、マリアは教会の最奥にある「清めの塔」へ幽閉されることになった。

花嫁としての純潔を守るためという名目だが、実際は逃亡を防ぐための軟禁だ。


塔の入り口で、俺は警備の騎士に組み伏せられ、泥の中に顔を押し付けられていた。



「離せ!彼女に一言だけでいい、話をさせてくれ!」


「黙れ、下民が!聖女様はこれから王妃となられる御身だ。

 貴様のような薄汚い男が近づいていい相手ではない」


騎士の嘲笑と共に、背中を蹴り上げられる。俺は無様に転がり、塔の狭い窓を見上げた。


そこにマリアの姿はない。彼女は一度も振り返らず、静かに石造りの牢獄へと飲み込まれていった。


俺は拳を地面に叩きつけ、血の味を噛み締めながら立ち上がった。


諦めてたまるか。

彼女が自己犠牲を受け入れたとしても、俺が納得できるわけがない。

俺はスラム街へ走り、顔なじみの連中や、かつてマリアに病を治してもらった者たちに声をかけて回った。



「頼む、力を貸してくれ!聖女様が売られようとしているんだ。みんなで教会に抗議してくれ!」


だが、返ってくる反応は冷ややかなものだった。


「売られる?人聞きが悪いな。隣国の王様に見初められたんだろ?めでたい話じゃないか」


「そうだぞ。おかげで祝いの酒が振る舞われるし、大聖堂の改修工事で仕事も増えた。聖女様様だよ」


酒場の男たちは、教会から配給された安いワインに酔いしれ、俺の話になど耳を貸そうとしなかった。

かつてマリアに命を救われた老婆でさえ、俺から目を逸らして呟いた。



「……教会の決めたことだもの。俺らにはどうしようもないよ」



絶望が胸を焼いた。

こいつらは、マリアが身を削って施した奇跡をなんだと思っているんだ。

彼女の優しさに縋り付いておきながら、目の前の酒と小銭のためにあっさりと見捨てるのか。


これが、マリアが守ろうとした民衆の正体だ。

俺は路地裏で一人、乾いた笑い声を漏らした。

マリアが言った「世界中どこへ行っても同じ」という言葉が、呪いのように頭蓋の中で反響する。


誰も助けてはくれない。

神も、人も、誰も。



~~~



その夜、俺は一人で塔への侵入を試みた。

警備の手薄な裏側の壁によじ登り、蔦を伝って上階の窓を目指す。

指先が裂け、爪が剥がれたが、痛みなど感じなかった。

マリアのいる場所へ、一秒でも早く辿り着きたかった。


だが、そんな無謀が通じるほど、教会の守りは甘くなかった。



「鼠が一匹、紛れ込んだぞ!」



窓枠に手をかけた瞬間、頭上からクロスボウの矢が放たれた。

肩を掠める鋭い痛みと共に、俺はバランスを崩して落下した。

茂みに突っ込んで即死は免れたが、すぐに兵士たちに取り囲まれた。


「なんだ、昼間の男か。懲りない奴め」


「殺すか?」


「いや、明日はめでたい婚礼だ。境内で血を流すと縁起が悪い。

 ……地下牢に放り込んでおけ。式が終わってから処分すればいい」


抵抗する間もなく殴りつけられ、俺の意識は暗転した。



~~~



目が覚めた時、そこは光の届かない地下牢だった。

湿った石床の冷たさが、マリアの体温を思い出させる。


彼女は今、塔の上で何を思っているのだろうか。

明日になれば、あの好色な老王の元へ送られる。


俺はそれを、ただ指をくわえて見ていることしかできないのか。



「……クソッ!」


鎖に繋がれた手で壁を殴る。


マリアは「最後まで見届けて」と言った。

だが、こんな暗い地下の底で、俺に何ができるというんだ。

時間の感覚が消えていく中、頭上から微かに鐘の音が聞こえてきた。


祝祭の鐘だ。

夜が明けたのだ。



街は今頃、祝いの準備で沸き立っていることだろう。

マリアが純白のドレスに着替え、祭壇へと歩みを進める準備をしている間、民衆は彼女が売られる代償として得た酒と肉に貪りついている。


その光景を想像するだけで、胃液が逆流しそうになった。



「……出ろ、罪人」


不意に、重い鉄扉が開いた。

眩しい光と共に、儀礼用の正装に身を包んだ衛兵が入ってくる。


「司教様の慈悲だ。聖女様の門出を、特別に拝ませてやるそうだ」


「……なんだと?」


「お前のような下賤な男でも、聖なる儀式を見れば改心するだろうとな。……感謝しろよ」


衛兵は俺の足枷を外すと、乱暴に背中を押した。

俺はふらつく足で、地上へと続く階段を上った。

慈悲なものか。俺に見せつけたいだけだ。

無力な俺が、何もできずに彼女を奪われる様を、特等席で味あわせるという悪趣味な余興だ。



だが、それでも構わない。


マリアに会えるなら。


彼女の最期の姿を目に焼き付けられるなら、どんな屈辱でも甘んじて受けてやる。



まばゆい朝陽が差し込む出口の向こう、大聖堂の広場からは、地響きのような大歓声が聞こえていた。


それは、これから始まる悲劇の幕開けを告げる、残酷なファンファーレだった。


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