第九章:ユダの銀貨と、聖女の値

冷たい秋雨が降りしきる午後、俺は教会の裏庭で資材の搬入作業をしていた。


大聖堂の改修工事という名目で、大量の石材や木材が運び込まれているが、その資金の出所がどこかなんて労働者たちは知りもしない。

ただ、司教の機嫌が最近やけに良いことだけは誰もが噂していた。



俺は一息つこうと、資材置き場の陰にある回廊の柱に背を預けた。

雨音に混じって、すぐそばにある執務室の窓から、暖炉の爆ぜる音と話し声が漏れ聞こえてきた。



===


「……それで、隣国の王はなんと?」


聞き覚えのある粘着質な声。司教だ。俺は息を潜めた。


「ええ、大変ご満足のご様子でした。提示された肖像画を見て、すぐにでも迎え入れたいと」


答えているのは、王家からの使いだろうか。落ち着いた低い声だ。


「結構。あの老いぼれ王め、若い肉体には目がないからな。……で、持参金の方は?」


「ご希望通り、軍事同盟の締結と、大聖堂の改築費用の全額負担をお約束いただけました」


「素晴らしい!祈るだけの木偶人形かと思っていたが、これほどの富をもたらしてくれるとはな」


心臓が早鐘を打った。聖女とはマリアのことだ。

彼らは今、マリアをまるで市場の家畜のように値踏みしている。


「しかし、民衆が納得するでしょうか。聖女は国の象徴です」


「愚民どもには『聖女様は隣国との平和の架け橋となるために嫁がれる』とでも言っておけばいい。

 涙を流して感動するだろうよ。はっはっはっ」



===



俺は唇を噛み切りそうなほど強く噛み、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。


政略結婚?いや、これは人身売買だ。


好色で知られる隣国の老王に、まだ十代のマリアを売り渡す。

金と権力と欲のために、彼女の人生を、体を生贄にするつもりだ。



怒りで視界が赤く染まる。

今すぐ部屋に飛び込んで、あの肥え太った豚の首を絞めてやりたい衝動に駆られた。


だが、そんなことをすればマリアはどうなる?

俺の命などどうでもいいが、彼女の立場をさらに悪くするだけだ。

俺は震える足でその場を離れた。雨音だけが、俺の耳元で司教の笑い声を反響させ続けていた。



~~~



その夜、俺はずぶ濡れのままマリアの元へ向かった。


いつものように長屋に来るのを待っていられなかった。


俺が教会の裏口で合図を送ると、マリアは驚いた顔で出てきたが、俺の形相を見てすぐに事情を察したようだった。

俺たちは雨を避けるように、礼拝堂の影に身を隠した。



「聞いたんだ、マリア。司教たちの話を」


俺は彼女の両肩を掴んだ。

華奢な肩が、俺の手の中で折れそうに頼りない。


「あいつら、お前を隣国の老王に売るつもりだ。平和の架け橋だなんて嘘だ。

 ただの金儲けと欲の道具にされるんだぞ」


「……ええ、知っているわ」


マリアの声は、雨音に消え入りそうなほど静かだった。彼女は動揺していなかった。

まるで、当然かのように淡々としていた。


「今日、通達があったの。来月の満月の夜に、婚礼の儀を行うって」


「ふざけるな!なんでそんなに落ち着いていられるんだ。……逃げるぞ、マリア」


俺は彼女の手を強く引いた。



「こんな国捨てて一緒に逃げよう。森を抜けて、海を渡れば、教会の手が届かない場所だってあるはずだ。

 貧しくてもいい、誰にも利用されない場所で暮らそう」



それは、俺ができる精一杯の提案だった。

身分も、生活も、何もかも捨てて、ただ彼女を守るためだけに生きる覚悟。


だが、マリアはその場から一歩も動かなかった。

彼女は悲しげに微笑み、俺の手をそっとほどいた。



「……逃げても、無駄よ」


「なんでだ!俺が必ずお前を守る。二度とあんな奴らに好き勝手させない!」


「嬉しいわ。その言葉だけで、私は十分幸せよ。……でもね、私が逃げたら、誰が代償を払うと思う?」


マリアは雨に濡れた石畳を見つめた。


「教会はメンツを潰されたことに激怒するわ。

 きっと『魔女に誑かされた』とか理由をつけて、スラム街ごと焼き払うでしょうね。

 あなたも、あの神父様も、私が守りたかった人たちも、みんな殺される」


「そんな……」


「それに、隣国との同盟も破談になる。そうなれば戦争よ。もっと多くの血が流れるわ」



彼女の言うことはあまりにも残酷な正論だった。


俺たちが逃げれば、罪のない人々が死ぬ。

彼女一人が犠牲になれば、全てが丸く収まる。


そんな理不尽な天秤を、この幼い少女に背負わせているのが、この世界の正体だった。


「だから、私は行くわ。これが聖女としての、最後の務めだもの」


「お前はそれでいいのかよ!あんな爺の慰み者になって、一生籠の鳥で……それでもいいのか!」


「いいのよ。……あなたが無事でいてくれるなら」


マリアは俺の頬に手を添えた。

その冷たさに、俺の熱くなった頭が急速に冷えていく。


「ねえ、お願いがあるの」


「……なんだ」


「婚礼の儀には、あなたも来て。一番近くで、私の晴れ姿を見ていてほしいの」



俺は息を呑んだ。

愛する女が売られていく様を、指をくわえて見ていろと言うのか。


だが、マリアの瞳は真剣だった。

拒絶を許さない、静かな迫力があった。



「私がこの身を捧げる最後の瞬間を、あなたにだけは見届けてほしい。

 ……神様への誓いじゃなくて、あなたへの誓いとして」



俺は拳を握りしめた。爪が食い込み、血が滲む。

無力だ。あまりにも無力だ。


俺には彼女を連れ出す力も、教会を潰す力もない。

彼女の自己犠牲を止める言葉すら持っていない。


ただの労働者風情が、国の決定に逆らえるはずもなかった。



「……分かった」


絞り出すような声だった。


「行くよ。お前がそう望むなら、最後まで見届ける」


「ありがとう」



マリアは満足そうに目を細め、雨音に紛れるように小さく笑った。

その笑顔は、どこか儚げで、そして諦念に満ちているように見えた。


俺は自分の無力さを呪いながら、雨の中で彼女を抱きしめることしかできなかった。



来月の満月の夜、彼女は俺の手の届かない場所へ行ってしまう。

それが変えられない運命なのだと、俺はこの時、絶望と共に受け入れていた。

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