第八章:パラダイス・ロスト
俺の手の中にあるのは、古びた鉄の鍵だった。
昨夜、マリアが帰った後の床に落ちていたものだ。
装飾のない無骨な黒鉄で、握りしめると指先が凍りつくように冷たい。
ただの倉庫の鍵なら放っておくが、マリアが肌身離さず持っていたものだと知っている。
彼女がこれを落として困っている姿が目に浮かび、俺は痛む脇腹を庇いながら、夜の帳が下りた大聖堂へと足を向けた。
警備の目を盗み、いつもの裏口から侵入するのは造作もなかった。
だが、マリアの姿は私室にはなかった。
廊下の突き当たり、厳重に施錠されているであろう「立ち入り禁止区域」の鉄扉が開いているのが見えた。
嫌な予感が背筋を撫でる。
俺は吸い寄せられるように、その隙間へと体を滑り込ませた。
~~~
螺旋階段はどこまでも地下へと続いていた。
降りるたびに空気が重くなり、カビと埃、そしてもっと古いインクの匂いが鼻孔を刺激する。
最下層に広がっていたのは、俺が見たこともない巨大な書庫だった。
高い天井まで届く本棚には、鎖で縛られた分厚い書物がびっしりと並んでいる。
教会の公式な記録ではない。
背表紙に刻まれているのは、見たこともない異国の文字や、冒涜的な紋様ばかりだ。
その中央、祭壇のように設えられた場所に、一枚の巨大な壁画があった。
松明の揺らめく明かりの下、そこにマリアが立っていた。
「……マリア?」
俺が声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、抱えていた黒い表紙の本を背後に隠した。
振り返った彼女の顔は蒼白で、まるで見てはいけない罪を犯している子供のような怯えがあった。
「どうして、ここに……」
「鍵が落ちてたんだ。届けに来ただけだ」
俺は鍵を差し出したが、視線はどうしても背後の壁画に吸い寄せられた。
そこに描かれているのは、誰もが知る【楽園追放】の場面に似ていた。
だが、決定的に違う。
林檎の木に巻き付いた蛇は、アダムとイブを誘惑しているのではない。
その口に咥えた剣を、二人に差し出しているのだ。
そして剣を受け取った二人の足元には、燃え上がる楽園と、血を流して倒れる神の姿が描かれている。
あまりに不敬で、あまりに鮮烈な絵だった。
「なんだ、この絵は……。神を殺しているのか?」
俺が問うと、マリアは力なく首を振った。
「これは禁書庫の最奥にある『原罪の真実』よ。教会が異端として封印した、もう一つの創世記」
「異端? そんなものを、お前が見てどうするんだ」
「知りたかったの」
マリアは背後に隠していた本を胸に抱きしめ、壁画の蛇を見上げた。
「神様への祈りが届かない理由を。私たちがどれだけ祈っても、泥水を啜らなきゃいけない理由を。
……もしかしたら、私たちは祈る相手を間違えているのかもしれないって」
彼女の声は震えていた。
無理もない。彼女は聖女だ。
神に仕え、その教えを信じてきた。
だが現実は、教会は腐敗し、無実の人間が焼かれ、彼女自身も道具として扱われている。
信仰が揺らぎ、救いを求めてこんな場所に迷い込んでしまったのだろう。
「マリア、よせ。そんなものを見ても救いなんてない。見つかったらお前まで異端審問にかけられるぞ」
俺は彼女の手を取り、ここから連れ出そうとした。
だが、マリアはその場から動かなかった。
「怖いの」
彼女は俺の手を握り返し、すがるように見つめてきた。
「この本には、神様に頼らないで人を救う方法が書いてあるみたいなの。
でも、言葉が古くて難しくて、私一人じゃ読み解くのが怖くて……」
「そんな危ない知識、知らなくていい。俺がついてる。神なんか頼らなくても、俺がお前を守るから」
「……本当に?」
「ああ。だから戻ろう。こんな湿気た場所、お前には似合わない」
マリアはしばらく俺の目を見つめた後、ふっと力を抜いて微笑んだ。
いつもの、儚げで守ってやりたくなる少女の顔に戻っていた。
「そうね。あなたがいてくれるなら、変な本に頼る必要なんてないわね」
彼女は黒い本を本棚の隙間に戻した。
だが、その手つきはどこか名残惜しそうで、俺には彼女が無理をして強がっているように見えた。
教会の闇に触れすぎて、心が疲弊しきっているのだろうか?
~~~
俺たちは暗い階段を上り、地上へと戻った。
出口で別れる際、マリアは俺の指に小さく口づけをした。
「今日のことは秘密よ? 誰にも言わないでね」
「当たり前だ」
俺は彼女の華奢な背中を見送りながら、胸のざわつきを抑え込んだ。
彼女はただ、現状を変えるための答えを必死に探していただけだ。
その手段が少し危うい方向に向かっていたとしても、俺がそばにいれば引き戻せるはずだ。
そう信じていた。
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