第七章:凍てつく白い羽
軋む肋骨と、呼吸をするたびに内臓を突き上げる鋭利な痛みが、浅い眠りから何度も引き剥がした。
真夜中の長屋は静まり返り、湿ったカビの臭いと、自分の身体から漂う鉄錆のような血の匂いが充満している。
寝返りを打つことさえ許されない激痛に歯を食いしばっていると、暗闇の中で白く浮かび上がる影が動いた。
マリアだ。
彼女は帰らずに、ベッドの脇の粗末な椅子に座り続けていたらしい。
「……起きた?」
静かな声だった。
俺は痛みを堪えて小さく頷く。
騎士に受けた暴行は、思った以上に深手を負わせていたようだ。
ただの打撲では済まない、腹の中で何かが壊れているような熱が引かない。
「ごめんなさい。私がもっと早く、あなたを“治す”べきだったわ」
マリアが立ち上がり、俺のシャツのボタンを外していく。
露わになった脇腹はどす黒く変色し、見るも無惨な有様だった。
「よせ、マリア。お前の“治癒の奇跡”は、教会が管理しているはずだ。
こんな場所で使えば、魔力の残滓で足がつく」
「いいえ。……いつもの奇跡なんて使わないわ」
マリアは首を横に振った。
「古い書物で見つけたの。教会の監視網にかからない、もっと静かな祈りの方法を。
……これなら、誰にも気づかれない」
「そんなものがあるのか?」
「ええ。あなたを治せるなら、私は何だって使うわ」
彼女の言葉を止める間もなく、マリアの冷たい掌が俺の患部に触れた。
いつもの祈りの言葉はない。聖女としての詠唱もない。
ただ、彼女がふっと息を吸い込み、何かを念じた瞬間、部屋の空気が凍りついたように停止した。
光はなかった。
治癒魔法特有の、温かな金色の輝きなど欠片もない。
代わりに俺が感じたのは、底知れない『冷気』だった。
痛みが引いていくのではない。
熱を持っていた肉体が、急速に冷却され、感覚そのものが遮断されていくような奇妙な感覚。
重みも、肉が潰れた感触も、すべてが唐突に沈黙した。
「……っ、あ……?」
俺は思わず声を漏らし、自分の腹部を見下ろした。
そこには、傷一つない肌があった。
だが、それは治癒したというにはあまりに異質だった。
傷跡が残るわけでもなく、新しい皮膚が再生したわけでもない。
まるで陶器の人形のように、毛穴の一つすら見当たらない、不自然なほど滑らかな白磁の肌。
そこだけ切り取って、作り物を埋め込んだような違和感。
俺は戦慄した。これは治療じゃない。何かもっと別の現象だ。
「マリア、今、何をした……?」
震える声で問うと、マリアは汗一つかいていない涼しい顔で微笑んだ。
「痛みを『散らした』の。……神様の奇跡は代償を求めるけれど、この方法はただ、苦痛を遠ざけるだけ」
「遠ざける……? 傷が消えたように見えるぞ」
「ええ。綺麗になったでしょう?」
マリアは俺の頬に手を添え、愛おしそうにその真っ白な指で撫でた。
彼女の説明は要領を得なかった。
だが、その表情には一点の曇りもなく、ただ俺の痛みが消えたことを純粋に喜んでいるように見えた。
俺は口ごもった。
確かに痛みは消えたし、命拾いをした。
だが、腹部に広がるこの「作り物めいた皮膚」の感触は、俺の生理的な嫌悪感を刺激してやまない。
本当に大丈夫なのか?
彼女は「古い書物」と言ったが、それはまともな教義に基づくものなのか?
「怖がらないで。これはあなたを守るための力よ」
マリアの唇が、俺の唇に触れる。
氷のように冷たいキスだった。
その冷気が体内に入り込み、湧き上がる不安を麻痺させていくようだった。
「誰にも言わないでね。これは二人だけの秘密。……教会の人たちが知ったら、きっと良く思わないわ」
彼女の瞳の奥で、微かな光が揺れている。
それは慈愛なのか、それとも秘密を共有する共犯者の目なのか、薄暗い部屋では判別がつかなかった。
「……ありがとう、マリア」
それでも、俺は礼を言うことしかできなかった。
彼女を拒絶すれば、彼女は崩れてしまう。
俺のために禁じられたかもしれない知識を使ってくれた彼女を、責めることなどできるはずがなかった。
マリアは満足そうに微笑み、俺の胸に頭を預けた。
俺は彼女のサラサラとした銀髪を撫でながら、腹部の違和感から意識を逸らそうと努めた。
ただ、静まり返った部屋の中で、俺の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
まるで、自分の身体が自分のものでなくなっていく恐怖に抗うかのように。
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