第六章:右の頬を打たれたら
昨夜からの雨は上がっていたが、石畳の窪みには黒く濁った水たまりが無数に残っていた。
俺は城壁の修復現場へ向かうため、大通りの端を歩いていた。
すると大通りの向こうから、蹄の音と車輪が石畳を叩く音が近づいてきた。
豪奢な装飾が施された白塗りの馬車。
側面には教会の紋章である黄金の百合が描かれている。司教の馬車だ。
俺たちのような下層民は、道を開けて頭を垂れるのが決まりになっている。
俺も荷物を下ろし、泥濘を避けて道の端に寄ろうとした。
その時だった。
馬車の車輪が大きな水たまりを勢いよく踏みつけ、跳ね上がった泥水が俺の全身に降りかかった。
俺は思わず顔をしかめ、手で泥を拭ってしまった。
「おい、貴様!」
馬車が急停止し、御者台から護衛の騎士が飛び降りてきた。
俺は泥を被った被害者だ。
だが、騎士は鬼のような形相で俺を睨みつけていた。
「神聖なる馬車の前で、なんと不敬な態度だ!その汚らしい泥が、司教様の視界に入ったではないか!」
言いがかりにも程がある。泥を跳ねたのはそっちだ。
だが、そんな正論が通じる相手ではないことは、騎士の腰にある剣を見れば分かる。
「……申し訳ありません」
俺は頭を下げた。
だが、騎士の怒りは収まらないどころか、俺の態度が気に食わないとばかりに俺の頬を張った。
「口答えをするような目つきだな。下民風情が、神の代行者に泥を塗った罪の重さを分かっているのか?」
「泥を被ったのは俺です。馬車には一滴も……」
「黙れ!」
腹部に重い衝撃が走った。騎士の鉄靴が、鳩尾にめり込んだ。
俺は膝から崩れ落ち、泥水の中に手をついた。
~~~
そこからは一方的な暴力だった。
背中を蹴られ、脇腹を踏みつけられる。肋骨が嫌な音を立てて軋み、激痛が突き抜けた。
通りすがりの人々は足を止めず、関わり合いになるのを恐れて顔を背けて通り過ぎていく。
俺は泥水を啜りながら、薄目を開けて馬車の窓を見た。
カーテンの隙間から、司教が冷ややかな目で見下ろしているのが見えた。
まるで道端の犬が轢かれるのを眺めるような、何の感情もない目。
「……もうよい。説教は済んだだろう」
司教の声で、ようやく暴力が止んだ。
「これに懲りたら、己の身の程を知るがいい。……行け」
騎士は最後に俺の頭を泥水に押し付け、唾を吐き捨てて馬車に戻った。
遠ざかる車輪の音を聞きながら、俺は泥まみれの地面に這いつくばったまま動けずにいた。
全身が痛い。
だがそれ以上に、悔しさが内臓を焦がしていた。
俺が何をした。ただ道を歩いていただけだ。
それなのに、あいつらは俺を人間扱いすらしなかった。
これが神に仕える者たちのすることか。これが、この世界の正義なのか。
~~~
夜、俺は痛む体を引きずって長屋に戻り、ベッドに横たわっていた。
薬なんて買えない。
濡らした布で泥と血を拭い、ただ痛みが引くのを待つしかない。
ガチャッ……。
扉が開く音がした。
マリアだ。
彼女は入ってくるなり、ベッドの上の俺を見て息を呑んだ。
「……酷い」
駆け寄ってきた彼女の手が、俺の腫れ上がった頬に触れる。
その手は、驚くほど冷たかった。
昨日の収穫祭で繋いだ時の温かさは微塵もない。
まるで氷像に触れられているような錯覚を覚えるほど、冷え切っていた。
「司教の護衛にやられた。……泥が跳ねた、それだけの理由だ」
俺が自嘲気味に告げると、マリアは何も言わず、ただ俺のシャツを捲り上げてあざだらけの脇腹を検分し始めた。
怒るわけでもない。泣くわけでもない。
彼女の表情からは、感情というものが完全に抜け落ちていた。
ただ静かな湖面のように、凪いでいる。
「……痛い?」
「ああ、死ぬほどな」
「そう。……これが、この世界の『形』なのね」
マリアは俺の傷口をなぞりながら、独り言のように呟いた。
その声には、諦めとも悟りともつかない、不気味なほどの納得が含まれていた。
「神様は見ていないわ。あの方々は、自分たちが神だと思っているもの。
だから、何をしても許されると信じている」
彼女は手際よく布を裂き、俺の胴体に包帯を巻き始めた。
その手つきは機械的で、慈愛に満ちた聖女の所作とはかけ離れていた。
「ごめんね。私がもっとうまく立ち回っていれば、彼らを止められたかもしれないのに」
「お前のせいじゃない。……俺が弱いからだ」
「違うわ」
マリアは包帯を結び終えると、俺の顔を覗き込んだ。
その瞳は暗く沈んでいるが、奥底には揺るぎない確信のような光が宿っていた。
「弱くなんかない。あなたは何も悪くない。
悪いのは、弱いものを踏みにじって平気な顔をしている、この世界の仕組みそのものよ」
彼女は俺の額に、そっと口づけを落とした。
唇もまた、冷たかった。
だがその冷たさは、俺の熱を持った怒りを静かに鎮めていくようでもあった。
「もう少し待っていて。……必ず、綺麗にするから」
俺はその言葉の意味を深く問う気力もなかった。
ただ、マリアの冷たい体温だけが、理不尽に焼かれた俺の体を冷やしてくれる唯一の救いのように思えた。
窓の外では、また雨が降り出していた。
泥を洗い流すには弱すぎる、陰鬱な雨音がいつまでも響いていた。
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