第五章:エデンの園に落ちたもの
秋の風が、街に染み付いた死臭を一時の間だけ吹き飛ばしていた。
今日は収穫祭だ。
実りが少なかろうが、疫病が蔓延していようが、人々は全てを忘れ酒を浴び、神に感謝を捧げるふりをして騒ぐ。
広場には色とりどりの旗が掲げられ、屋台からは羊肉を焼く香ばしい脂の匂いが漂っていた。
喧騒の中、俺は隣を歩く小柄な人影を庇うようにして歩調を緩めた。
それは粗末な茶色の外套を目深に被り、顔の半分を隠しているマリアだ。
彼女は今日、公務という名の監禁を巧みに抜け出し、少しの時間だけ「普通の少女」としての自由を手に入れていた。
「すごい人だかりね。みんな、笑ってる」
フードの奥で、マリアが目を輝かせて囁く。
その声は弾んでいた。
大聖堂のステンドグラス越しに見る景色とは違う、生の活気に満ちた街の姿が、彼女には新鮮に映るのだろう。俺の手を握る彼女の指先が、高揚で微かに熱を帯びているのが分かった。
「はぐれるなよ。酔っ払いが多い」
「ええ、離さないでね」
俺たちは人混みを縫って、果物を売る屋台の前で足を止めた。
木箱には、真っ赤な林檎が積まれている。
貧民街の市場に並ぶような虫食いだらけの物とは違う、貴族の果樹園から流れてきた上等な品だ。
俺はポケットの中の銀貨を探った。
痛い出費だが、今日の彼女の笑顔には代えられない。
「一つくれ」
店主にコインを渡し、一番赤くて形の良い林檎を受け取る。
ずしりと重いその果実を袖で磨いてマリアに手渡すと、彼女は両手でそれを包み込むように受け取った。
「綺麗……まるで宝石みたい」
「かじってみろよ。甘いぞ」
マリアは小さく頷き、白い歯を立てて林檎を齧る。
シャク、と小気味良い音が響き、甘酸っぱい香りが広がる。
彼女は口元を果汁で濡らしながら、咀嚼し、ごくりと喉を鳴らした。
「……美味しい。すごく」
彼女は齧りかけの林檎を、俺の口元へと差し出した。
「半分こ、しましょう。あなたも食べて」
「いいのか?」
「ええ。……なんだか、“アダムとイブ”みたいね」
マリアが悪戯っぽく笑う。
俺はその言葉に少しだけドキリとしながら、反対側を大きく齧った。
溢れる果汁と、濃厚な甘み。
二人で一つの果実を分け合うという背徳的な行為が、その味をさらに深くしている気がした。
俺たちは路地裏へと続く石畳を、林檎を回し食べしながらゆっくりと歩いた。
祭りの喧騒が遠ざかり、静寂が訪れる。このまま時間が止まればいいと、本気で思った。
だが、この街の現実は、そんなささやかな願いすらも許さない。
「──離して!嫌だ、助けて!」
悲鳴が、静寂を引き裂いた。
角を曲がった先の暗がりで、豪奢な服を着た太った男が、平民の少女の髪を掴んで引きずっていた。
男の顔は酒で赤く染まり、その目は下卑た欲望で濁りきっている。
「うるさいメス豚だなあ。貴族様が祭りの夜に相手をしてやるって言ってるんだ、光栄に思えよ」
「嫌っ、助けて、お父さん!」
少女が抵抗して暴れるが、男の従者らしき護衛がそれをゲラゲラと笑いながら見ているだけだ。
俺は反射的に足を踏み出した。
ふざけるな。祭りの夜なら、何をしても許されると思っているのか。
だが、その一歩は踏み出せなかった。
マリアが、俺の袖を強く掴んで引き留めたからだ。
「……行かないで」
「マリア!でも、あの子が……!」
「今あなたが飛び出せば、騒ぎになるわ。そうしたら、私の顔も見られる。
……私がここにいることが知れたら、あなたも、あの子も、全員処罰される」
マリアの声は冷静だった。いや、“冷静すぎた”。
彼女の言うことは正しい。俺がここで義憤に駆られても、権力の前では無力だ。
聖女の密会が露見すれば、俺は極刑、マリアもただでは済まない。
俺は唇を噛み切りそうなほど強く噛み、握り拳を震わせながらその場に立ち尽くした。
少女の悲鳴が遠ざかっていく。
貴族の男の下品な笑い声だけが、路地の壁に反響して残った。
俺たちは何もできなかった。ただ見殺しにしたのだ。
「……帰りましょう」
マリアが静かに言った。
俺は彼女の顔を見ることができなかった。どんな顔をしているのか、想像するのが怖かった。
怯えているのか、悲しんでいるのか、それとも──。
ふと、彼女の手元に視線を落とす。
食べかけの林檎。
つい数分前まで赤く輝いていたその果肉は、茶色く酸化し始めていた。
まるで、血が乾いてこびりついたかのような、汚い茶色。
美しく見えた皮一枚の下には、すぐに腐敗していく脆い中身が詰まっている。
それが、この世界の正体だと言われているようだった。
「……そうだな、帰ろう」
俺はマリアの肩を抱き、逃げるように路地を後にした。
背後からはまだ、祭りの陽気な音楽が聞こえてくる。
その音色が、俺たちの無力さを嘲笑っているように思えてならなかった。
マリアの手の中にある変色した林檎だけが、俺たちの罪の形をはっきりと映し出していた。
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