第四章:箱舟は選別を望み、水はあふれた
(マリア視点)
それは疫病が流行るよりももっと前、マリアがまだ聖女として名を上げる前のこと。
「ほら、もっと慈悲深く笑え!金貨の音が聞こえないのか」
革靴の爪先が、私の脛を容赦なく蹴り上げた。
鋭い痛みが走るけれど、私は表情一つ変えずに口角を持ち上げる。
大聖堂の奥にある控え室。
ここは最も神聖な場所のはずなのに、漂っているのは安物のワインと、脂ぎった欲望の臭いだけ。
司教様は私の髪を乱暴に掴み、鏡の方へと無理やり向かせた。
「いいか、マリア。お前はただの看板だ。
民衆が涙を流して賽銭箱に金を放り込みたくなるような、哀れで清らかな人形を演じていればいい」
「……はい、司教猊下」
「チッ、気味の悪い目だ。……用が済んだらさっさと祈っていろ」
司教様は興味を失ったように私を突き飛ばし、重い扉を閉めて出て行った。
バタン、という音と共に静寂が戻る。
私は床に座り込んだまま、ジンジンと熱を持つ脛をさすった。
痛い。
でも、この痛みは懐かしい。
八年前の冬。
雪の降る路地裏で、私は汚れたボロ布のように転がっていた。
あの時の奴隷商人も、今の司教様と同じ目をしていた。
私を人間ではなく、金になるかどうかの肉塊として値踏みする目。
『使えねえガキだ』『死んじまえ』
罵声と暴力が日常だった。寒さと空腹で感覚が麻痺し、私はただ、早く心臓が止まればいいと願っていた。
神様なんていなかった。
教会で教わる「神は平等の愛を注ぐ」なんて、持てる者が作った太った嘘だ。
もし神様がいるなら、どうして私は泥水を啜らなきゃいけないの?どうして誰も助けてくれないの?
でも、あの日。
世界が反転した。
「そいつ、俺がもらう」
降ってきたのは、神様の光じゃない。
薄汚れた服を着た、私より少し年上の男の子の声だった。
彼が差し出した手は荒れていて、温かくて、泥だらけだったけれど、私にはどんな宝石よりも輝いて見えた。
彼がくれた硬いパンの味。分け与えてくれたスープの温もり。
私を人間として扱ってくれたのは、天にいる神様じゃない。
目の前にいる「あなた」だけだった。
「……神様なんて、いらない」
私は立ち上がり、祭壇に置かれた分厚い聖書を手に取った。
豪華な装飾が施されただけの、誰も読まない飾り物。
私はそれをパラパラとめくる。文字を覚えたのは、この理不尽な世界の仕組みを知るためだ。
私の指が『創世記』のページで止まる。
『主は、人の悪が地にはびこるのをご覧になった』
『主は心を痛め、こう仰せられた。わたしが創造した人を、地のおもてからぬぐい去ろう』
ノアの方舟。バベルの塔。
神様は、自分の作った世界が気に入らなくなったら、権威でリセットした。
悪い人間を溺れさせて、文明を消して、選んだ命だけを残して、新しい世界を始めた。
私はページの上を指でなぞる。
「……ふーん」
口から漏れたのは、安堵の吐息だった。
神様だって、掃除をするんじゃない。
失敗作を壊して、更地に戻して、作り直す。
それは「愛」ゆえの慈悲だと、この本は言っている。
なら、私が同じことをしても許されるはずだわ。
だって今の世界は、あの頃よりもっと酷いもの。
私を蹴る司教様。腐り切った群衆と世界。
そして、私の大切な「あなた」に石を投げ、泥を塗りたくる理不尽なシステム。
この世界は、もう洗うだけじゃ落ちない汚れでいっぱいだ。
私は聖書を閉じた。
「待っていてね、私だけのアダム」
私は冷たい床に口づけをした。
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