第三章:魔女をその日の中に生かしておくな

街を覆う空気が、一週間で変わった。



鼻を突く異臭。

汚物や腐った野菜よりもっと甘く、そして生理的な嫌悪を催させる、病と死の匂い。



「黒斑病」と呼ばれる疫病が、下町を中心に爆発的に広がり始めていた。


皮膚に黒い染みが浮き上がり、高熱にうなされ、三日と経たずに肉が腐り落ちて死ぬ。


特効薬はなく、人々は恐怖に駆られて家の窓を閉ざし、道端で倒れた隣人を避けて歩くようになった。



見えない恐怖は、やがて目に見える生贄を求めるようになる。

教会が目をつけたのは、貧民街で細々と薬草を売っていた、あばた面の娘だった。


彼女は平民にも安く薬を分けてくれる善良な女だったが、その知識が仇となった。


『井戸に毒を撒いた魔女』だと、誰かが根拠のないデマを吹き込んだのだ。



広場の中央には、急ごしらえの薪の山が築かれていた。


その頂点で柱に縛り付けられているのは、顔中を殴打され、髪をむしられた薬草売りの娘。

彼女は虚ろな目で空を見上げ、もはや弁解する気力すら失っているようだった。


薪を取り囲む群衆の目は、血走っていた。

誰もが病への恐怖を怒りに変換し、それをぶつける対象を渇望している。

その狂気じみた熱狂の前に、マリアが立たされていた。



「さあ、聖女マリアよ!神の敵を浄化せよ!」



司教の怒号が響く。

マリアの手には、赤々と燃える松明が握らされていた。


聖女が異端に火を放つ。

それが、民衆の不安を鎮め、教会の権威を示すための儀式だった。



俺は人混みの最前列で、爪が食い込むほど拳を握りしめていた。

ふざけるな。あの娘は何もしていない。ただの風邪薬を作っていただけだ。

それを、自分たちの無策を棚上げにするために焼き殺そうというのか。


マリアは蒼白な顔で縛られた娘を見上げ、それから助けを求めるように司教を振り返った。

だが、返ってきたのは冷酷な顎しゃくりだけだ。



「……神よ、迷える魂に救済を」


マリアの唇が微かに動き、松明を振り上げた。

群衆が固唾を呑む。

彼女が投げた松明は、放物線を描き……薪の山の手前に虚しく転がった。


火は薪に届かなかった。

静まり返る広場。

マリアはその場に崩れ落ちるように膝をつき、顔を覆った。



「申し訳ありません……手が、震えて……」


「チッ、俺がやる!」


罵声を浴びせたのは、傍らに控えていた巨漢の処刑人だった。

彼はマリアを乱暴に押しのけると、自らの松明を薪の山へと放り込んだ。


乾いた木材が、油を含んで爆ぜるように燃え上がる。

ごうっ、と熱風が広場を舐めた。

その直後、炎の中から絹を引き裂くような絶叫が上がった。



「熱い!熱い!助けて、私はやってない!お母さん、助けてぇぇぇ!」



悲鳴はすぐに、喉が焼ける音と、脂が弾ける音にかき消された。

群衆が歓声を上げる。

「魔女が死ぬぞ、これで病も消えるぞ」と、狂ったように叫びながら祈りを捧げている。



その煉獄の前で、マリアは糸が切れたようにぐらりと傾き、意識を失って倒れた。

俺は柵を乗り越えようとしたが、警備の兵士に槍で突き飛ばされた。


燃え盛る炎の赤と、倒れたマリアの白。そして、焦げた肉の匂い。


狂っている。

俺は泥にまみれながら、ただその光景を網膜に焼き付けることしかできなかった。



~~~



その夜、マリアは俺の腕の中で小刻みに震え続けていた。

いつものようにスープを飲むこともなく、ただベッドの隅で膝を抱え、自分の肩を爪が白くなるほど強く抱いている。


「……匂いが、取れないの」


掠れた声だった。


「髪にも、肌にも、あの人が燃える匂いが染み付いてる。何度洗っても、鼻の奥から消えてくれないの」


「マリア……」


「あの子、何もしてなかったわ。知っていたのに、私は……」


マリアは俺の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らした。

俺は彼女の背中をさすり続けた。彼女の髪からは、いつもの石鹸の香りしかしない。

けれど、彼女の心には焼きごてのようなトラウマが刻まれてしまったのだろう。


無実の人間が見せしめに殺され、それを先導させられた罪悪感。

普通の少女が背負える重さではない。



「怖かった……。みんなが笑って見ているのが、炎よりも怖かった……」


「もういい、思い出すな。俺がそばにいる。ここには誰も来ない」


マリアはしがみつく力を強めた。



俺は彼女を守らなければならないと、改めて強く思った。


……自意識過剰な思考。

だが、俺を人柱にしても、マリアを守りたいという思いに嘘はない。


この狂った街の理不尽から、教会の汚い思惑から、彼女の心を壊そうとする全ての悪意から。

マリアが泣き止むまで、俺はずっと彼女の頭を撫で続けた。



彼女が俺の胸元で見えない表情を浮かべていることになど、気づくよしもなかった。



(……あの娘、運が悪かったわね)



マリアの心の奥底、誰にも触れられない冷たい場所で、彼女は感情を切り離して整理していた。


あの子は確かに無実だった。

けれど、あのまま生きていても疫病にかかって野垂れ死ぬか、暴徒に襲われていたでしょう。

魂が濁りきる前に、炎で焼かれて灰になったほうが、世界にとっては綺麗な結末だったのかもしれない。



そう、あれは浄化。


必要な犠牲。


私の手が汚れなかったのは、神様の配慮ではなく、私がそう仕向けたから。



「……あなたがいてくれて、よかった」



マリアは顔を上げ、涙に濡れた瞳で俺を見つめた。

その瞳は、怯える少女のように潤んでいて、俺の庇護欲をどこまでも掻き立てた。


俺は彼女を抱きしめ返す。

窓の外では、まだ異臭を含んだ風が吹き荒れている。



疫病も、魔女狩りも、まだ終わらない。


この世界が腐り落ちるまで、この狂騒は続くだろう。

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