第二章:汝のスープによりて生きる

昼下がりの中央広場は、鼻が曲がりそうなほどの異臭と熱気に包まれていた。


夏の日差しが石畳の汚物をあぶり出し、群衆の汗の匂いと混ざり合って、澱んだ空気を形成している。


だが、広場を埋め尽くす人々は誰一人として顔をしかめてはいなかった。

彼らの視線は一点、広場の中央に設えられた豪奢な演壇だけに釘付けになっていたからだ。

演壇の上では、脂ぎった顔の司教が、まるで肉屋が上等な豚肉を売り込むような声量で叫んでいた。



「さあ、見よ!神の慈悲が形となった、この聖なる免罪符を!」



司教が掲げたのは、何の意味もない羊皮紙の切れ端だ。

だが、そこに教会の印が押されているというだけで、それにはパン一ヶ月分以上の値がつけられている。


「これを買えば、過去の罪は洗い流され、死後の魂は煉獄の炎から救われる!金貨一枚だ!

 たった一枚で、永遠の安寧が約束されるのだぞ!」


群衆がどよめき、我先にと手を伸ばす。


その狂騒の横で、マリアは静かに立っていた。

純白の聖衣を纏い、手には銀の聖水瓶。

彼女の役割は、売れた免罪符に聖水を振りかけ、聖女としての「箔」をつけることだ。


司教が金貨を受け取るたび、マリアは機械仕掛けの人形のように手首を返し、水を撒く。

その表情は、教会の壁画にある聖母のように穏やかで、そして死人のように生気がなかった。



あれは救済なんかじゃない。ただの集金だ。

人々の不安を煽り、なけなしの金を巻き上げるための、もっともらしい詐欺芝居だ。


その時、一人の老婆が演壇の前に進み出た。

着ている服はボロボロで、俺と同じ貧民街の住人だと一目で分かった。



「お、お慈悲を……」


老婆は震える手で、薄汚れた布袋を差し出した。中からチャリ、と安っぽい音が響く。


「これで、先月死んだ息子の魂は……救われますか?悪いことばかりしていた子ですが、どうか……」


司教は布袋の中身をチラリと確認し、あからさまに鼻を鳴らした。


「銅貨か。……まあいい、神は寛大であらせられる」


司教は老婆の手から乱暴に袋をひったくると、一番小さな紙切れを放り投げた。

老婆はそれを地面に這いつくばって拾い上げ、涙を流して感謝している。


マリアがその前に歩み出た。

彼女は老婆を見下ろし、聖水瓶を傾ける。

滴り落ちる水が、老婆の白髪を濡らす。


その一瞬、マリアの視線が俺の方を向いた気がした。


(助けて)


声には出さず、彼女の瞳がそう叫んでいるように見えた。

だが次の瞬間には、彼女はまた完璧な聖女の顔に戻り、次の購入者へと向き直っていた。



~~~



その日の夜、マリアはいつものように俺の部屋へやって来た。

だが、その足取りは昨日よりも重く、顔色は青白かった。

彼女は椅子に座るなり、テーブルに突っ伏して動かなくなった。



「……酷い顔してるぞ」


俺が水を差し出すと、マリアは顔を上げずに呟いた。


「神様って、本当にお金がお好きなのね」


その声は、乾いた笑いを含んでいた。


「あのお婆さん、今日食べるパンも我慢して貯めたお金だったはずよ。

 それを、あんな紙切れ一枚と交換して……私が聖水をかけただけで、本当に救われたと思っている」


「お前のせいじゃない。教会が腐ってるだけだ」


「でも、私がその看板よ。私が笑って立っているから、みんな信じてお金を出すの。

 司教様は言っていたわ。今年の改築費用は、私の顔のおかげで目標額を達成できそうだって」


マリアはゆっくりと体を起こし、差し出された水を一口飲んだ。

コップを持つ指先が、小刻みに震えている。


「私の祈りなんて、本当は誰にも届いていないのかもしれない。

 ……ねえ、あの聖水瓶の中身、ただの井戸水なのよ。知ってた?」


彼女は自嘲気味に口元を歪めた。

大聖堂の煌びやかな装飾も、厳かな儀式も、その裏側は腐った葡萄のようにドロドロに溶け崩れている。


マリアはその汚泥の中心に立たされ、清らかな蓮の花を演じ続けなければならない。

俺は彼女の震える手を、両手で包み込んだ。



「俺が、もっと強ければ……お前をあんな場所から連れ出してやれるのに」


悔しさが言葉になって漏れた。

俺に力があれば、金があれば、権力があれば。

そうすれば、彼女にこんな惨めな思いをさせずに済む。


だが現実は、俺はその日暮らしの労働者で、彼女は国一番の聖女だ。


この手は彼女を温めることはできても、その鎖を断ち切ることはできない。

マリアは俺の手を見つめ、そっと自分の頬に寄せた。


「いいの。あなただけが、私の罪を知ってくれているなら」


彼女の瞳が、暖炉の火を反射して揺らめく。

その瞳の奥には、諦めではなく、なにかもっと暗く、静かな熱が渦巻いているように見えた。


「汚れているのは教会だけじゃない。この街も、国も、全部。

 ……神様が見て見ぬふりをするなら、誰かが終わらせなきゃいけないのよ」


「……マリア?」


「ううん、なんでもないわ。……もう少しだけ、こうしていて」



彼女は俺の掌に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。


まるで、外の世界の悪臭を俺の匂いで上書きしようとするかのように。



俺は何も言えず、ただ彼女の華奢な肩を抱き寄せた。


教会の鐘がまた鳴った。

昼間はありがたく聞こえたその音が、俺たちを嘲笑う金貨のぶつかり合う音にしか聞こえなかった。

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