第一章:罪人の金は教会へ
(数年後)
大聖堂の鐘が鳴り響く。
重厚で威圧的な音色は、俺のような下層民に一日の労働の終わりと、神への感謝を強制的に告げてくる。
俺は酸っぱい汗が染み込んだ手拭いで顔を拭い、荷運び用の木箱を地面に下ろした。
今日も朝から晩まで城壁の修復資材を運び続けて、得られたのは銀貨数枚。
これでまた数日は食いつなげるが、それ以上の未来なんて描けやしない。
「おい聞いたか?今日の聖女様の御説教」
帰り道、赤ら顔の同僚が興奮気味に話しかけてきた。
「広場に集まった病人全員に祝福を与えたらしいぞ。いやあ、マリア様は本当に神の使いだ。
あんなに美しくて慈悲深いお方は、この国の宝だよなあ」
「……ああ、そうだな」
俺は曖昧に相槌を打って、早足でその場を離れた。
街の至る所に、聖女マリアの肖像画が飾られている。
銀色の髪に、透き通るような白い肌、全てを包み込むような慈愛に満ちた微笑み。
八年前、俺が泥の中から拾い上げたあの少女は、今や国中で知らぬ者はいない「聖女」として、雲の上の存在になっていた。
大聖堂の奥深く、金と大理石でできた部屋に住まい、王侯貴族にかしずかれる彼女と、カビ臭い長屋でその日暮らしをする俺。
住む世界が違うなんて言葉じゃ足りない。
俺たちはもう、関わることすら許されない隔絶された場所にいるはずだった。
~~~
陽が落ち、路地裏に濃い闇が満ちる頃、俺は自宅である長屋の扉を開けた。
建付けの悪い扉が音を立てる。
狭い室内には、古びたテーブルと粗末なベッド、そして小さな暖炉があるだけだ。
俺は暖炉に薪をくべ、鍋に水を張った。
萎びた野菜の切れ端と、硬くなった黒パンを放り込んで煮込むだけの、味気ない夕食。
その時だった。
コン、コン。
扉を叩く、控えめな音。
この時間に借金取りでもない限り、こんなボロ家を訪ねてくる客なんていない。
俺はため息をつきながら、扉の鍵を外した。
隙間風と共に滑り込んできたのは、深くフードを目深に被った小柄な影。
「……遅かったな、今日は」
俺がそう声をかけると、影はフードをゆっくりと外した。
暖炉の火に照らし出されたのは、街中の肖像画よりも遥かに美しい、本物の銀髪と白磁の肌。
“聖女マリア”。
彼女は俺の顔を見るなり、張り詰めていた糸が切れたようにふにゃりと破顔した。
「ごめんなさい。司教様のお話が長くて、なかなか抜け出せなくて」
「見つかったら俺の首が飛ぶぞ。いい加減、護衛も警戒するだろう」
「大丈夫。私の祈祷の時間は誰も邪魔しちゃいけないことになってるから。……神様との対話の時間だもの」
マリアは悪戯っぽく舌を出して、慣れた手つきで粗末な木の椅子に腰掛けた。
つい数時間前まで、数千人の民衆から崇拝を受けていた聖女様が、今は俺の汚い部屋で、肘をついて鍋の中身を覗き込んでいる。
この光景に、俺はいまだに慣れることができない。
俺は煮上がったスープを二つの木の器によそい、一つを彼女の前に置いた。
「またこれか、って顔するなよ。肉なんて買えないんだからな」
「ううん、これがいいの。これが一番美味しいわ」
マリアはスプーンを手に取り、ふうふうと息を吹きかけてから、一口啜った。
熱さに少し顔をしかめ、それから本当に幸せそうに、ほう、と息を吐く。
「……あたたかい。大聖堂の食事はね、金のお皿に盛られていて綺麗なんだけど、いつも冷たいの。
味もしないわ」
「贅沢な悩みだな」
「本当よ。何人も毒見をした後に運ばれてくるから、私の口に入る頃にはすっかり冷めきってるの。
それに、テーブルの向こうからずっと監視されているし」
マリアは苦笑して、また一口スープを飲んだ。
硬くて味気ないはずの黒パンを、まるで極上の菓子のように大切そうに齧る。
その姿は、国が崇める「聖女」ではなく、ただの年相応の少女そのものだった。
俺は自分の分のスープを啜りながら、彼女の横顔を見つめた。
八年前、俺の背中にしがみついていた小さな女の子。
教会の敷居を跨がせた時、もう二度と会うことはないと思っていた。
けれど彼女は、聖女として祭り上げられてからも、こうして俺との繋がりを絶とうとしなかった。
危険を冒してまで、抜け道を使い、こんな掃き溜めのような場所へ通ってくる。
「……無理して来なくていいんだぞ。お前はもう、俺なんかと関わっていい立場じゃない」
俺が言うと、マリアの手が止まった。
彼女はスプーンを置き、真剣な眼差しで俺を見つめ返した。
「ここが、私の“教会”なの」
「は?」
「あそこは職場よ。みんなが拝んでいるのは『聖女マリア』という偶像。
誰も本当の私なんて見ていない。……でも、ここだけは違う」
マリアはテーブル越しに手を伸ばし、俺のゴツゴツした手をそっと包み込んだ。
彼女の手は驚くほど白く、そして少しだけ冷たかった。
「あなたが拾ってくれた命だもの。私の心臓が動いているのは、あなたのためよ。
だから……私を追い出さないで」
懇願するような、それでいてどこか熱っぽい瞳。
俺はその真っ直ぐな視線に射抜かれ、言葉を失った。
彼女の言っていることは危うい。
一国の聖女が、一介の労働者に執着するなんてあってはならないことだ。
だが、その手の感触を振り払うことが、俺にはどうしてもできなかった。
「……分かったよ。好きにしろ。ただし、スープのおかわりはないからな」
ぶっきらぼうに答えると、マリアは花が咲くように笑った。
「ふふ、十分よ。ごちそうさまでした」
彼女は空になった器を名残惜しそうに眺め、それからまた深くフードを被り直した。
聖女の仮面を被り直す合図だ。
「じゃあ、また明日ね。……おやすみなさい」
扉が開き、彼女は夜の闇へと消えていった。
残された部屋には、微かな残り香と、空になった二つの器だけがある。
俺は冷めかけた自分のスープを飲み干し、溜息をついた。
幸せな時間だった。
けれど、その幸せは薄氷の上に成り立っている。
彼女が聖女として輝けば輝くほど、その影は濃くなり、俺たちの秘密は重くのしかかってくる。
いつかこの平穏が壊れる日が来る気がして、俺は震える手を強く握りしめた。
窓の外では、まだ雪が降り続いているような寒さが、春になっても消えずに残っていた。
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