聖女は世界を愛さない
狂う!
第零章:泥と雪の創世記
世界は、汚れと欲で塗れてる……そう思わない?
この街に降る雪は、白くない。
空から落ちてくる途中で煤煙を吸い込み、地面の泥と糞尿に混じって、足先を壊死させるほど冷たいドブ川に変わる。
俺は吐く息で凍えた手を温めながら、石畳を急いでいた。
ポケットの中には、なけなしの銅貨が三枚。
これで黒パンの端切れと、運が良ければ腐りかけの野菜スープくらいにはありつける。
腹が減りすぎて、胃が内側から俺自身を消化し始めているような気分だった。
だから、路地裏の騒ぎになんて関わっている余裕はなかったはずなんだ。
「おい、立てよゴミが!飯食わせてやった分くらい働きやがれ!」
汚い罵声と、肉を蹴る鈍い音が響いた。
小太りの奴隷商人が、足元のボロ布の塊を執拗に蹴り上げている光景だった。
ボロ布じゃない。それは人間だった。
雪と泥にまみれて判別がつきにくいが、わずかに覗く手足は枯れ木のように細い。
長く伸びた髪だけが、この汚い路地裏には不釣り合いなほど透き通った銀色をしていた。
「チッ、死んだふりかよ。これだからガキは手がかかるんだ。
売れもしねえ、働きもしねえ。殺して肉屋に卸した方がマシか?」
商人が唾を吐き捨て、腰の短剣に手を伸ばす。
周囲の大人たちは、無関心な目でそれを見ていた。
ここでは命の値段なんて、パン一個より安い。日常茶飯事の光景だ。
俺だってそうだ。通り過ぎればいい。
なのに、足が動かなかった。
商人の足元で、その銀髪の少女が顔を上げたからだ。
助けを求める目ではなかった。恐怖に震える目でも、怒りに燃える目でもない。
ただ、底のない井戸のような虚無。
自分がここで殺されることを、ただの事象として受け入れている、諦観しきった瞳。
そのあまりの静けさが、俺の心臓を不快に鷲掴みにした。
「……おい」
気づけば、声が出ていた。
商人がギロリとこちらを睨む。
俺はポケットから三枚の銅貨を取り出し、商人の足元の泥水に投げ捨てた。
「そいつ、俺がもらう」
「あぁ?なんだそのハシタ金は。パンの耳も買えねえぞ」
「殺して処分する手間賃だ。それとも、死体を運ぶ労力を使いたいか?」
ハッタリだった。
商人がその気になれば、俺ごとき捻り潰される。
だが商人は、しばらく俺と、泥の中の銅貨を交互に見比べた後、卑しい笑みを浮かべて金を拾い上げた。
「……違いない。手間が省けたわ」
商人は少女の横腹を最後に一度だけ蹴り飛ばし、踵を返した。
俺は急いで駆け寄り、泥の中にうずくまる少女の腕を掴んだ。
中身が入っていないんじゃないかと疑うほど、恐ろしい軽さだった。
抱き上げると、冷え切った体温が俺の服を通して伝わってくる。
「……行くぞ」
少女は何も言わなかった。抵抗もしなければ、感謝もしない。
ただ人形のようにされるがままになっている。
~~~
俺は彼女を背負い、馴染みの古い礼拝堂へ向かって歩き出した。
あそこにいる老司祭なら、事情を話せば今夜くらいの寝床は貸してくれるかもしれない。
雪が激しくなり、視界を白く染めていく。
(はぁ……)
なんでこんなことをしたんだろう。
明日の飯代は消えた、背中には死にかけのガキ。
俺自身の明日だって保証されていないのに。
「……バカみたいだ」
独り言が漏れた。
足元の石畳はヘドロでぬかるみ、どこかの家からは子供を殴る音と怒鳴り声が聞こえる。
教会の鐘が鳴っているが、その音色すら錆びついて聞こえた。
この世界は、どこまで行っても救いがない。
富める者はさらに肥え太り、俺たちのような持たざる者は泥を啜って死んでいく。
理不尽が石畳のように敷き詰められた、クソ溜めのような世界。
背中の少女の重みだけが、唯一の確かな実感だった。
「あーあ」
俺は空を仰ぎ、灰色の雪雲に向かって吐き捨てた。
「神様でも悪魔でもいいからさ、いっそ誰か、この世界を掃除してくれねえかな」
本心だった。
こんな街も、国も、全部なくなってしまえばいい。
一度綺麗サッパリ消えてしまえば、痛みも空腹もなくなるだろうに。
投げやりな祈り。誰に聞かせるつもりもなかった毒づき。
けれどその時、背中の少女の指が、俺の服をギュッと強く握りしめたのが分かった。
「……そうじ?」
掠れた、小さな声。
それが彼女が発した、初めての言葉だった。
「……ああ、そうだ。全部ゴミだろ、ここは」
俺が答えると、少女は俺の首筋に顔を埋めた。
冷たかった彼女の体が、微かに熱を帯び始めた気がした。
振り返って見ることはできなかったが、俺は確かに感じていた。
あの虚無の瞳に、たった今、暗くて熱い火が灯ったことを。
俺の言葉を、まるで生まれて初めて与えられた絶対の神託か何かのように、反芻している気配を。
「あなた、それをのぞむの?」
耳元で囁かれた問いかけに、俺は深く考えずに頷いた。
「望むね。切実に」
少女はそれ以上、何も言わなかった。
ただ、俺の背中にしがみつく腕の力だけが、痛いほどに強くなっていった。
雪は降り続き、俺たちの足跡を白く塗りつぶしていく。
それが、何かを終わらせる長い長い準備の始まりだとは知らずに、俺はただ寒さに震えながら歩き続けた。
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