第1話

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 謁見の間は、混乱状態にあった。


 勇者の脇腹から鎌首をもたげた蛇のように従者に狙いを定めた「なにか」が、飛び出たかとおもえば、瞬く間にとぐろを巻くようにして彼を包み込んで、とぐろごとその縄状の実体の境目が溶けていく。


 勇者はその傍らで、腐った肉の臭いを放ちながらボロ布のように崩れ落ちたまま。


 玉座の床にへたり込んだ王は逃げ腰のまま後ずさって、どこへ逃げたらよいかもわからないといったように体を縮こめた。


「悪魔の吐息だ……」


 そう口走った人がいた。失笑の声が誰かの喉の奥から漏れる。王が剣を抜かなかったのに、天蓋が裂けて悪魔の吐息が漏れ出でるわけもない。神話を知らぬ者は王宮内では第一に軽蔑される。他に学ぶものといったら宮廷作法くらいしかないからだ。

 

 幸いにも、今この瞬間は、あのどくろは周囲に危害を及ぼそうとはしていない。従者一人のに手間取っているうちにと、人々は真っ先に、先ほど恥を口走ったばかりの者を押しのけ、後ろに追いやりながら出口を目指した。


 王国は滅びた。誰もがそう思った。勇者は魔王の術中にあり、王を殺すための尖兵となって帰還したのだと。そうであるならば王は確実に助からない。王が死ぬのなら、王を護れなかった咎が王により宣告されることもないのだ。その仮定は逃げた多くの人にとって安堵に似た感情を心に抱かせた。


 ――しかし、そうはならなかった。


 とぐろに呑み込まれた従者は、しかし、まだ人の形を保ったまま自らの力で立っている。そして、一歩、二歩と王に歩み寄った。化け物に飲み込まれておいて、意識を保っているらしい。王の視点は、従者に吸い付けられる。恐らくは、恐怖のあまり他のなにも見えてはいまい。


 その従者の名を、エラヤムと言う。この二年で護衛隊長にまで昇りつめた剣技の達人で、忠誠心も高いとされた。しかし、彼の仕官から今に至るまで王は彼を信じなかった。王の左右に控えいかなる大臣より近く王に仕えると護国法に規定されている護衛隊を王は信じず、よりにもよって勇者の帰還という国を挙げた慶事に王より一番遠くに侍らせた。


 そのことを王は悔いた。王を殺そうとする魔王の思惑と、不遇を恨んでいるだろうエラヤムの意思が自分の喉を掻っ切るのだと本能で感じた。


 臆病な王と蔑まれることはあっても、彼は王であった。剣を抜くことは相変わらずできなかったが、彼は震える手で玉座を後ろ手に掴み、手繰るようにして体重を乗せて立ち上がった。生まれたばかりの仔鹿のような頼りない足取りだったが、鞘のままの剣を従者に向け、一応は腰を下ろし、片脚を引き、迎え討つ体勢を作る。誰にも見られぬ最期だろうが、せめて一矢は報いたかったのかもしれない。


 とぐろ状の実体は半透明で、水辺の生き物の卵のように中に複数の粒がある。それがせわしなく動き、従者の体をなぞり確かめている。彼の皮膚を破り体内に侵入しようと試み、それがうまくいかず手間取っているようだった。


 彼の喉仏が上下した。そして、くぐもった声を発した。


「我が王」


 従者エラヤムが王に語りかけ、それを合図にして、彼にまとわりついていた粘液は塩を浴びせた粘体動物のように彼の身体から剥がれ落ちていく。に感情があるとは考えにくいが、仰け反ったり、捻れたり、まるで苦しがっているかのようだった。


「――陛下。ご無事でしょうか」


「ぶ、無礼であるぞ、王を前にしてひさまずかぬとは」


 この期に及んで権威が大切なのか、と呆れる気持ちもない。王はいつだってそうだった。むしろ、こんなへっぴり腰で立てているだけこの王にしては方だ。


 エラヤムは頭がズキズキと痛むのを感じた。鼻と口を覆われていても苦しくないことに疑問を持ち、粘液は呼吸を阻害しないことを仮定した。せめて辞世の句でも詠んでから死のうと息を吸う感覚で飲み込んだあの粘液が、何かしらの害を体に与えているに違いない。彼は頭に手を添えた。痛みに耐えるためだった。


 王は、それを許さなかった。いや、怯えゆえに許せなかったと言ってもいい。従者であり護衛隊長の彼を王から遠ざけ冷遇したのは王自身である。振りかぶったように見える彼の手を見て、殺される前に殺さなければならないと考えたのかもしれない。


「――ッ」


 王はエラヤムに究極の攻撃を――


 与えられなかった。大きく振り上げた剣の重さに耐えかねて尻餅をついた。


「我が王、魔王追討のご命令を」


「なにを、言っている。勇者は先ほど帰還した。勇者は魔王を倒せず帰還した――そしてあろうことか我が命を狙った。それは其方そなたも見たであろう。王位でもなんでも、其方の目の前にある。我が王国は負けたのだ。この醜い王も好きに処遇するがよい」


 エラヤムは、長い悪夢を見たような気がしていた。その夢から覚めて、勇者の記憶を部分的にではあるが引き継いでいるらしい。


 エラヤムが生涯にただの一度も見たことがない、極度に巨大化したり全身が奇形になっている魔物の数々を、エラヤムは鮮明にことができる。


「陛下、あなたは惜しいことをなされました。魔物は誇り高き勇者の身体を蝕み、勇者は最期の願いとして王ご自身による討伐を望みましたのに」


「何度言わせるつもりだ。王は始祖王の予言により、剣を抜いてはならぬ、とある」


「王国史のことを語られる時、陛下はわずかに自信を取り戻される」


 王は押し黙るしかなかった。会話の主導権は、完全にエラヤムに奪われていた。宮廷作法の枠の中でかろうじて保てていた権威が通じない。


「魔王追討のご命令を」


 王の応答を待たず、エラヤムは王の剣の先端を軽々と持ち上げ、跪き、自らの肩に当てた。


 

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2025年12月28日 00:00

赤い大河と勇者の帰還 春瀬由衣 @haruse_tanuki

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