赤い大河と勇者の帰還
春瀬由衣
プロローグ
プロローグ
魔王を倒し帰還した勇者は、謁見の間に控えている。
跪く背はただひとつ。勇者の率いるパーティは勇者ただ一人を残して全滅した。ただっ広い応接間にこうも人がまばらだと、王国の財政状況が窺い知れる。――ところどころ、絨毯の刺繍がほつれているのだ。
王の従者は彼の脇腹の傷に思いを至らせていた。魔王城から三ヶ月かけて帰城してなお癒えぬ傷は、国境を流れる大河のように深く、両岸が盛り上がっており、醜い緑色の膿を出している。
宮廷付祭司は、今までに王が探し出した数多くの
――代わりはいくらでもいる、が、荒廃した国土は人の心も廃れさせる。従者はいくら王の命じたことであっても、市井の人々の下品な群れに紛れるのが苦手だった。
身寄りのない子がいないか、と聞くと、農民たちは報酬を求めて汚く傷だらけの手を差し出す。感染症にかかり指が大きく腫れたり、欠けていたりする者もいた。
従者がかつて見つけ出した汚い子供は、今、従者さえも許されない王自らの手での祝福を許されている。
従者の少しばかりの自尊心が、チクリと痛んだ。
当てつけのように、銀糸を使った刺繍もある高価な正装が、どうか、傷口からの膿で汚れませんようにと従者は祈った。今までの勇者たちは、中の上程度の生地の衣服を目にしただけで目が眩み、それを奪って元の下界に降りて行こうとした。それに比べて今の勇者は多少は気骨がある。
あまりに価値が高い衣服は買い取れる業者など国内にはなく、手を持てあました業者に通報されて捕えられ、そのまま処刑されるのが関の山だった。ただ、その中にも逃げおおせた者は何人かおり、完全な形で残っている
王が現れた。指定された時間よりも一時間も遅い到着だった。王はしばしば、王家の威厳を示す意図で約束の時間に遅れることがある。そんなものが糸くずほどの役にも立たないことくらい従者にも察せられる。
この間も隣国から嫁いだ王妃が陰口を話していたことを知っている。思わず口元に浮かぶ嘲笑を慌てて引っ込めた。王は、自分に向けられた悪意にとても繊細だ。
それにしても、勇者の帰還に合わせての帰国とは、王と会うことが目的ではないのではなかろうか。
「勇者よ。このたびは悪逆非道なる……」
「陛下」
勇者は王の言葉を遮った。魔王を倒していなければ、即座に斬り伏せられているほどの非礼である。ただ、王その人に剣を振るう度量はない。
「……許そう。望みは何か」
「陛下、どうか……その剣で私を御討伐なされませ」
誰もが俯きがちに薄ら笑いをたたえた謁見の間は、最前線の戦場のように凍りついた。王が剣を抜くことは終末の始まりだと考えられてきたからだ。国を荒廃させ世継ぎも生まれない王でも国が滅びないのは、王が剣を取れないからだと皮肉とともに語られる、その王の剣。
「なにを申すか。臣民を守った勇敢な者に死を与えるほど余は非情ではない」
王の言葉が震えているのを多くの人が聞いた。
「我が王国の歴史と始祖王の予言についてはそなたも習ったはずだ。王が剣を抜くとき、その切先の鋭さゆえに天蓋を開き、外界に住まう悪魔の吐息が我らを死に至らしめる、と」
王家の歴史と建国神話について知る者も今や少なくなった。しかし、勇者付となった教育係が先王の側近だっただけのことはある。勇者は優れた教育も施されたらしく、問答で従者が恥をかくことも増えていた。
今度の行軍は厳しいものになる。死地に行くことになるぞと告げたとき、勇者の顔は歪まなかった。そのことにひどく、自らの価値が矮小化されたような屈辱を感じた。
「承知しております。王国の歴史は我ら臣民にとって誇るべきもの、我が王が正統なこの大陸の支配者であることを裏付ける国の神聖な魂です。されど、あえて申し上げます。――抜かれることを想定されない剣ならば、なぜそれは造られたのでしょうか」
従者は驚きをもって勇者の背を見た。清潔な布で何重にも傷を保護したはずなのに、膿が漏れて正装が変色している。
いや、あれは。傷が、この短時間に急激に大きくなっているのかもしれない。毒見にも使われる銀で刺された刺繍が、赤黒く変色している。一方、傷を布で覆った箇所にそれほどの変色は見られない。
そんなことが、ありうるのか?
国境の大河には魔王領の土壌から侵出する毒が含まれているが、こちら側の岸には比較的毒は少なく、生活用水になら使用は認められるほどだ。しかし、稀に毒の濃淡が入れ替わるときがある。
ドクドクと自分の心臓が醜く跳ねた。王に仕える身であるという誇りで覆い隠していた、自らも汚い下界の者だったという事実が、勇者の堂々たる振る舞いへの嫉妬心と、毒耐性のある勇者であっても抗えない異変への恐怖で記憶の表層に浮かび上がってくる。
従者の人生にとって最大の悲しみは何であったか。唯一の肉親である母が、いつものように川で水を汲み煤だらけの汚らしい服を洗っていた。母の手にはかすかな傷があったのだろう。通常なら毒にならぬ濃度のはずの毒が、肉体の処理機能を超えて母に蓄積した。
服から見える母の肌も、あのように赤黒く変色していた。駆けつけたときにはもう息はなかったのだ。
そのときの恐怖・怒り・悲しみ・憎しみが臓腑の中でトグロを巻いて、飛び出す瞬間を待ち構えている。
勇者の脇腹が脈動したように見えた。従者は一瞬の迷いののち、護衛剣を鞘のまま携えて突進した。
「母の死に間に合わなんだのに、この若造は情もなく殺してしまうのか」
誰かの声が、脳内に語りかけてくる。頭を強く振って未練を断つ。それでも、声は語りかける。
「王の権威なき王を護り、未来ある若者の首を刎ねるのか」
躊躇が、生まれた。
脈打つ脇腹は敵意に敏感だった。ひとまずは勇者の気を失わせればよいと逃げの一手をとった従者を、雷よりも速く触手で絡め取った。
王は玉座に尻餅をついた。王の佩いた剣の装飾が玉座に当たりガチャガチャと鳴った。
しかし触手は、ただちに従者をむさぼりはしなかった。勇者の思考が、記憶が、粘液のようなものを通して従者にも流れ込んだ。
毒の沼地が、勇者の体力を削り取るーー。魔法使いは自身の魂を犠牲にして勇者に不死の呪いを付与した。闘剣士はあと一息で死ぬほどには弱っていると偽装した魔王に負荷の強い技を用いた反動から起き上がれない。どれだけダメージを与えようとも回復してしまう魔王に、勇者の焦りは募る。
これは、戦場の記憶。そして、勇者の記憶を覗き見ることができるのは、王家の血を受け継ぐ者にしか与えられない特権ではなかったか。
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