第4話 誰も嘘をついていない
記録室では、今日も紙の音だけがしていた。
ページをめくる音、束ねる音、机に置く音。
誰かの声が止まると、その隙間をすぐに紙が埋める。
「……この報告書ですが」
クラストが、ためらいがちに口を開いた。
シャルロットとヨモギは、同時に視線だけを向ける。
「何か問題が?」
シャルロットが聞く。
「内容が、前の版と違います」
クラストは一冊の冊子を差し出す。「死亡時刻が修正されています」
「修正されていますね」
シャルロットは確認するように言った。
「最初の記録では、“不詳”だったはずです」
「はい」
ヨモギが答える。「不詳は、後から補われました」
「補われた、というのは……」
クラストは言葉を切る。
「整合です」
シャルロットが言う。「同日の別記録と合いませんでした」
「合わなかったから、書き換えた?」
「合わせました」
シャルロットは言い直す。
クラストは、その違いを理解できなかった。
「現場では、誰も時刻なんて……」
「現場は、もう存在しません」
シャルロットは静かに言った。「存在するのは、記録です」
ヨモギが別の書類を開く。
「こちらも修正が入っています。“撤退中に発生”が、“戦線整理過程において”に」
「意味が変わっています」
クラスト。
「変わっていません」
シャルロットは首を振る。「読める範囲が変わっただけです」
クラストは、冊子の背表紙を指でなぞった。
そこには、日付と部隊名が整然と並んでいる。
「これは……改竄ではないんですか」
言葉にした瞬間、空気がわずかに動いた。
だが、誰も表情を変えなかった。
「改竄、とは?」
シャルロットが聞き返す。
「事実を……別の形に」
「事実は、誰が持っていますか」
シャルロットは即座に返す。
クラストは答えられない。
「あなたですか?」
「……分かりません」
「では、彼ですか?」
シャルロットは、負傷帰還兵が座っていた椅子を見る。
「彼も、“分からない”と言いました」
ヨモギが口を挟む。
「不確かなものを、そのまま残す方が危険です」
「危険?」
クラスト。
「読めてしまいますから」
ヨモギは淡々と言う。
シャルロットが続ける。
「読める文は、誰かの責任になります」
「責任を……消している?」
「分散しています」
シャルロットは言った。「国家に」
クラストは、思わず笑いそうになった。
だが、笑えなかった。
「でも、それは嘘では……」
「私たちは、何も断定していません」
シャルロットはペンを持ち直す。
「断定していないことは、嘘ではありません」
「……」
「あなたが感じている違和感は」
シャルロットは続ける。「事実が消えたことではありません」
クラストは息を飲む。
「最初から、形がなかっただけです」
ヨモギが、新しい冊子を机に置く。
背表紙には、同じ書式、同じ色、同じ厚み。
「これで、揃いました」
ヨモギが言う。
「誰も、嘘はついていません」
シャルロットは頷く。
クラストは、その言葉に反論できなかった。
彼が覚えているものは、すでに言葉にならない。
記録室では、また紙の音だけが続いていた。
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