第3話 証言欄なし
記録室の奥には、小さな椅子が一脚だけ置かれている。
誰かが長く座ることを想定していない配置だった。
「では、証言をお願いします」
シャルロットが形式通りに言った。
その前に、負傷帰還兵が座っている。杖は壁に立てかけられていた。
「……役に立たない話だぞ」
彼は最初にそう言った。
「構いません」
ヨモギが記録用紙を整える。「話してください」
帰還兵は、少しだけ天井を見た。
何かを思い出しているようにも、何も見ていないようにも見えた。
「敵がどうとか、数がどうとかは言えない」
彼はゆっくり話す。「見えていなかった」
ヨモギのペンが動き出す。
「命令も聞こえなかった」
「聞こえなかった、ですか」
シャルロットが確認する。
「ああ。声じゃなかった」
帰還兵は首を振る。「音はあったが、意味はなかった」
ペンが止まる。
「音、というのは?」
シャルロット。
「説明できない」
帰還兵は即答した。「だから役に立たない」
沈黙が落ちる。
ヨモギはペン先を紙から浮かせたまま待っている。
「他に、何か」
シャルロットが促す。
「誰が倒れたかも分からない」
帰還兵は続けた。「気づいたら、立っているやつが減っていた」
「減っていた、という表現は……」
ヨモギが小さく言う。
「使えませんね」
シャルロットが判断する。
「じゃあ、ここに来る意味は何だ」
帰還兵は初めて、声を強めた。
シャルロットは少し考えた。
「呼ばれたから、では?」
帰還兵は笑ったような息を吐いた。
「そうだな」
「では、証言として残せる部分は」
シャルロットが整理する。
「ない」
帰還兵は言った。「全部、形にならない」
ヨモギは紙に何も書かないまま、次の欄を見る。
「証言不能、理由……」
彼は小さく呟く。
「“内容が不明瞭なため”で」
シャルロットが言う。
ヨモギがその通りに記す。
帰還兵は、その文字を見ていた。
自分の話が、別の言葉に変わる瞬間を。
「これで終わりです」
シャルロットが言った。
「もういいのか」
帰還兵。
「はい。ありがとうございました」
礼は、形式だけだった。
帰還兵は立ち上がり、杖を手に取る。
扉に向かう途中、一度だけ振り返った。
「……あそこには、理由なんてなかった」
誰も返事をしなかった。
扉が閉じる。
バタン、という音だけが記録室に響いて、消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます