第2話 朱書きの規定
記録室の机には、赤いインク壺が一つ置かれている。
黒よりも先に目に入る色だが、使われる頻度は高くない。
それでも、なくなることはない。
「この一文、修正対象です」
ヨモギが報告書を一枚、シャルロットの前に差し出した。
余白に、小さく朱線が引かれている。
「どこが?」
シャルロットは視線を落とす。
「“補給の遅延により部隊が混乱”」
ヨモギは感情を交えずに読む。「“混乱”が規定外です」
「使えませんね」
シャルロットは赤ペンを取る。「“想定外の状況下において”に差し替えましょう」
赤い線が、黒文字をなぞる。
上書きされた言葉は、まだ読めるが、読まれることはない。
クラストは、その様子を黙って見ていた。
「……想定外、ですか」
彼は小さく言う。
「はい」
シャルロットは顔を上げない。「便利な語です」
「実際は、補給が来なかっただけで……」
「“だけ”ではありません」
シャルロットは遮る。「想定と違った。それ以上でも以下でもない」
ヨモギが次の書類を出す。
「こちらも朱書き候補です。“指揮命令が錯綜”」
「削除」
シャルロットは即答した。
「理由は?」
クラストが聞く。
「責任の所在が読めてしまいます」
シャルロットは淡々と言う。「読める文は、不適切です」
ヨモギが赤線を引く。
その下に、何も書かれない空白が残る。
「空白でいいんですか」
クラスト。
「はい」
シャルロット。「空白は、誤解を生みません」
クラストは口を閉じた。
誤解のない文章など、戦場にはなかった、と思ったが、それを言葉にする術がなかった。
「“撤退時に発生した事故”」
ヨモギが読み上げる。
「“事故”は……」
シャルロットは一瞬考え、「“不測の事態”に」
「不測、ですか」
「測れていない、という意味です」
シャルロットは言う。「測っていない、ではありません」
クラストは、机の端に手を置いた。
紙が、かすかに擦れる。
「現場の実態は、こうして全部……」
「整えています」
シャルロットは言い直す。「上書きではありません」
「違いが、分かりません」
「分からなくていいのです」
シャルロットは赤ペンを置く。「分からない状態を作るのが仕事ですから」
ヨモギが静かに書類をまとめる。
朱書きの入った紙は、別の束に移された。
「この束は?」
クラストが尋ねる。
「清書待ちです」
ヨモギ。
「清書されると?」
「赤は消えます」
シャルロットが答えた。
クラストは、その束を見つめた。
そこには、まだ読める言葉が残っている。
だが、それが残る時間は短い。
「次、行きます」
ヨモギが言う。
クラストはただそれを眺めていた。
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