pièce première
木目の間についた金属の取っ手が指に痛い。部屋の中までついてきそうな冷気に慌てて扉を閉めたら、チャリンと頭上で鈴が鳴る。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから涼やかなテノール。見ればすっきりした顔立ちの青年が微笑を浮かべている。すらりとした長身に清潔感ある白衣。首元で斜めに合わさったノーカラーのデザインはいつだか雑誌で見た料理人のそれ。
この若い彼が、
「何かお探しのショコラがおありでしょうか」
あ、えっと。通りがかりで、つい。すみません、贈り物とかなくて、何でもない日で。
なんでか惹かれてしまったものの、何も分からなくて。
「それならこちらを」
骨ばった指がショーケースにいくつも並んだ中からひと粒のチョコレートを摘み上げた。小さな銀のプレートに載せられたのは、飾りも何もない、ただただ艶めいた正方形のかけら。
「当店のスペシャリテの中でも、最もシンプルな
どうぞお味見を、と差し出された、壊れそうな薄い板。悴む指で受け取って、パリンと歯の先で割る。
途端に口の中で広がる芳香と渋い苦味。頭を刺激する酸味が、濃厚な甘味と混ざり合う、見た目に反して、奥深く、すっきりとして後に残る。
「ええ。なんの変哲もないように見える日のために、お作りいたしました」
ああ、そうか。そうです。何でもない日に欲しかったのは。
「初めて当店へいらしたお客様の今日が、記憶に刻まれる特別な日になるように」
ショコラティエの瞳が満足げに光る。
「お求めに添えたようですね」
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