リノリウムの戦場
「来週の月曜午前、壁面の強制洗浄を行う。反抗する者は停学処分も辞さない」
一ノ瀬の名で出された最後通牒が掲示板に貼り出された。文化祭まであと7日。学校側は、彼らの存在そのものを「なかったこと」にする決定を下した。
「……やるしかないな」
トオル、佐々木、そしてハルの三人は、夜の理科準備室に集まった。彼らの手には、数日分の食料と、大量のペンキ缶。
深夜11時。消灯された校舎。
彼らの戦場は、もはや美術室だけではなかった。彼らは「籠城」を選んだ。
「警備員の巡回は1時間に一度。その隙を突いて中庭に出る」
佐々木が、受験勉強で鍛えた緻密な計画を提示する。エリートとしての冷静さと、芸術家としての狂気が、彼の中で一つに溶け合っていた。
暗闇の中、リノリウムの床を這うように移動し、三人は壁画の前へ。
「ハルさん、君は右側を。部長は中央を。僕は……一ノ瀬が塗った白い部分を、もう一度黒で塗りつぶす」
懐中電灯の細い光を頼りに、筆を動かす。
沈黙を破ったのは、ハルだった。
「ねえ……どうして私たちは、こんなに苦しい思いをしてまで描いてるのかな」
「たぶん、そうしないと自分が消えてしまいそうだからだ」
トオルが答える。
「現実は、僕たちに『普通であれ』って言い続ける。でも、その『普通』っていう型に自分を押し込もうとするたびに、心が削れていくんだ。……この壁画は、その削りカスの集合体だよ」
その時、背後の暗闇から足音が響いた。
ライトを照らしたのは、警備員ではなく――リョウだった。
「……まだ、こんなことしてたのかよ」
「リョウ……通報するのか?」
トオルの問いに、リョウは黙ってサッカーバッグから、一箱のスプレー缶を取り出し、地面に転がした。
「……部活の部室の掃除してたら、去年の学祭で使ったやつが出てきたんだよ。捨てようと思ったけど、お前らのバカな面見てたら、捨てるのが面倒になった」
リョウは目を合わさない。けれど、その目は微かに潤んでいた。
「……10分だけだ。10分だけ、見張っててやる。その間に、さっさと終わらせろ」
親友の不器用な加勢。バラバラだったピースが、再び繋がり始める。
しかし、夜明けが迫る頃。校舎の全ての照明が一斉に点灯した。
中庭を囲むベランダに立っていたのは、一ノ瀬と、数人の教師たちだった。
「夜間侵入、器物損壊。……残念だよ、朝比奈君。これで君たちは、もう『生徒』ですらなくなる」
一ノ瀬の手には、強制撤去用の高圧洗浄機のノズルが握られていた。
「終わらせよう。この醜い悪夢を」
無慈悲な水圧が、描きかけの壁画を襲う。
叫び声を上げるハル。立ち尽くす佐々木。
けれど、トオルは洗浄機の水しぶきを正面から浴びながら、笑っていた。
「一ノ瀬さん。水で流せるのは、表面のペンキだけだ。……僕らの胸にある『化物』は、そんなもんじゃ消えないんだよ!」
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