化物の正体
「犯人を捜してどうする? 復讐でもするつもりかい」
一ノ瀬の嘲笑が耳に残る。泥を投げ、スプレーを吹き付けたのは誰か。美術部内では犯人探しが始まり、空気は最悪だった。
トオルは確信していた。この「執拗なまでの汚れ方」は、単なる嫌がらせではない。そこには、叫びに似た強烈な感情がこびりついている。
雨の放課後。誰もいないはずの旧校舎の裏。
トオルは、壁画の端にこっそりと筆を走らせている人影を見つけた。
「……何してるんだ」
肩を跳ねさせたのは、犯人だと疑われていた過激な部員でも、一ノ瀬の差し金でもなかった。
そこにいたのは、「消さないで」とトオルに懇願した、あの大人しい女子生徒・ハルだった。
彼女の手には、壁画を汚したものと同じ、真っ赤なスプレー缶。
「……君だったのか」
トオルの声に、ハルは泣きそうな顔で、けれどスプレーを離さなかった。
「……羨ましかったんです。朝比奈くんも、部長も。あんなにボロボロになって、みんなに嫌われて、それでも『自分』を叫べて。私には、そんな勇気ないから。……だから、壊して、私と同じ場所まで引きずり下ろしたかった」
彼女こそが、最も「化物」に心を食い荒らされていた被害者だったのだ。
周囲に合わせ、声を殺し、透明な存在として生きる。その抑圧された感情が、トオルたちの「輝き」を見た瞬間に、黒い嫉妬となって爆発した。
「ハルさん。……君が一番、この壁を見てくれてたんだね」
トオルは彼女からスプレーを奪わなかった。代わりに、自分の筆を差し出した。
「壊したいなら、描き変えてよ。君のその真っ黒な気持ちも、全部ここにぶつけてくれ。この壁画は、僕たちのものじゃない。現実と戦ってる、みんなのものなんだ」
ハルは呆然と筆を見つめ、やがて大粒の涙をこぼした。
「……私、ずっと、苦しかった」
彼女が初めて吐き出した本音。それは、学校中に蔓延する「同調圧力」という化物の断末魔だった。
その様子を、物陰から佐々木が見ていた。
彼は医学部の参考書をゴミ箱に捨て、震える手で自前のパレットを取り出した。
「……トオル。僕も、もう仮面を被るのはやめる」
三人は、泥と赤スプレーで汚された壁画をそのまま活かし、新たな色を重ね始めた。
絶望を消すのではない。絶望さえも「絵の一部」として取り込んでいく。
一方、その報告を受けた一ノ瀬は、冷徹な仮面の下で、わずかに指先を震わせていた。
「……なぜだ。なぜ、壊されるほどに彼らは強くなる?」
一ノ瀬の脳裏に、かつて自分が「現実」によってへし折られた時の、苦い記憶が蘇る。
実は、一ノ瀬こそが、かつて誰よりも「化物」に敗北した少年だった。
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