崩壊する理想
謎の男の歌声に背中を押され、トオルと佐々木は再び筆を取った。一ノ瀬が塗った白いペンキさえも「背景」に変え、より激しく、より鮮やかに描き変えていく。
しかし、その熱狂の翌朝、彼らを待っていたのは希望ではなく、無残な「死」だった。
「……嘘だろ」
美術室へ向かう途中の廊下。トオルの足が止まった。
中庭に面した大壁画。昨夜まで魂を宿していた極彩色の影は、無残に剥ぎ取られ、その上からドロドロの泥水と、真っ赤なスプレーで呪詛のような言葉が書き殴られていた。
『自己満足』『死ね』『偽善者』
ただ汚されたのではない。明確な悪意を持って、彼らの「心」が踏みにじられていた。
「誰が……こんな……」
佐々木が崩れ落ちるように膝をつく。これまでの反対勢力である一ノ瀬や教師たちなら、もっと「事務的」に消すはずだ。これは、もっと身近な、ドロドロとした情念による暴力だった。
「トオル、もう無理だ……」
佐々木の声が震える。
「僕たちは、戦ってるつもりだった。でも、現実は僕らを受け入れないどころか、こうやって徹底的に壊しに来るんだ。……僕には、もう耐えられない」
追い打ちをかけるように、美術部の他の部員たちが詰め寄る。
「朝比奈くん、佐々木部長。いい加減にしてください!」
「二人のせいで、部全体が連帯責任を問われてるんです。推薦入試に響いたらどうしてくれるんですか?」
「結局、二人が目立ちたいだけじゃないんですか?」
仲間だと思っていた部員たちの冷たい視線。それは、一ノ瀬の正論よりも深くトオルを傷つけた。
『現実という名の化物』は、外部にいるのではない。自分を信じてくれるはずのコミュニティの、すぐ隣に潜んでいる。
トオルは一人、泥にまみれた壁画の前に立った。
そこへ、サッカー部の練習に向かうリョウが通りかかる。
「……だから言っただろ。無駄だって」
リョウの瞳には、哀れみと、自分を正当化するような安堵の色が混じっていた。
トオルは何も言わず、泥で汚れた壁を素手でなぞった。
爪の間に泥が入り、嫌な感触が伝わる。けれど、その冷たさが逆に、トオルの頭を研ぎ澄ませていく。
「無駄じゃないよ、リョウ」
「はあ?」
「誰かが、本気で僕らを憎んだってことだ。誰かの感情を、ここまで激しく動かしたんだ」
トオルは足元に転がっていた真っ赤なスプレー缶を拾い上げた。
「絶望するには、まだ早い。ここからが、本当の戦いだ」
トオルは、荒らされた壁画のど真ん中に、力強く一本の線を引いた。
それは再生の儀式などではない。
崩壊した理想の瓦礫の中から、剥き出しの「本音」を取り出すための、凄絶な宣戦布告だった。
しかし、その影で、一ノ瀬会長が誰かに電話をかけていた。
「……ええ、計算通りです。彼らはもう自壊し始めていますよ」
一ノ瀬の冷徹な笑みの裏に、さらなる巨大な策略が隠されていた。
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