泥だらけのヒーロー


中庭。白いペンキで塗りつぶされようとする壁画の前で、トオルは立ち尽くしていた。


「退いてくれ、朝比奈君。これ以上、君たちの幼稚な反抗につきあうつもりはない」


一ノ瀬会長の冷たい声が響く。周囲を取り囲む生徒たちの目には、好奇心と嘲りが入り混じっていた。


「これで終わりかよ、お前らの戦いは」


その声は、どこからともなく現れた。

人だかりをかき分けて現れたのは、ボサボサの髪に、使い古したギターを背負った男だった。彼の目元には深い皺が刻まれ、その顔には諦めと、それでも消えない情熱が同居している。


「おい、その面(つら)、最高に格好悪いな」


男はトオルを指差し、にやりと笑った。


「何なんですか、あんた」


トオルの警戒する声にも臆することなく、男は一ノ瀬会長の持つペンキのローラーを奪い取った。


「あんたらのやってること、全部見てたぜ。SNSも、この落書きも」


男は黒く塗られた壁に、奪ったローラーで白いペンキを豪快に叩きつける。


「見ろよ、この汚ねぇ壁を。誰かの綺麗な理想を押し付けられて、それでも足掻こうとした泥まみれの跡だ。これを綺麗に塗りつぶして、何が残るんだ? 何もねぇだろ!」


「これは学校の秩序を保つためです!」一ノ瀬が反論する。


「秩序だと? ふざけんな。お前らの言う秩序ってのは、自分たちが傷つかないための言い訳だろ。なあ、あんたら、本当にこの壁が醜いのか?」


男は生徒たちを見渡した。


「俺はな、こんな泥だらけの壁の方が、よっぽど人間らしくて好きだぜ。だって、生きてるって感じがするじゃねえか」


男はギターをケースから取り出すと、無造作に弾き始めた。


ストロークは荒く、けれど魂を揺さぶるような音色。


それは、トオルがイヤホンで何度も聞いた、あの歌だった。


「誰かの言葉に怯えるな 君だけの歌を歌え」


「おい、そこの二人」


男はギターを弾きながら、トオルと佐々木を顎で指した。


「お前らの目ん玉には、まだ光が残ってる。それがなけりゃ、人間はただの抜け殻だ。格好いいことばかり言ってる奴らほど、自分の弱さから目を背けてるもんだぜ。お前らは、もっと泥まみれになれ。それが、お前らだけの『ヒーロー』の証なんだよ」


男の言葉は、トオルの心に直接響いた。

SNSでの誹謗中傷、親友との決別、そして周囲の冷たい視線。全てが彼を打ちのめそうとしたけれど、この男の言葉は、トオルの内側でくすぶっていた火を再び燃え上がらせた。


「……僕ら、描いてもいいんですか?」


トオルが震える声で尋ねると、男は満面の笑みで答えた。


「ああ。描け。誰に何を言われても、描き続けろ。それが、お前ら自身の現実だろ」


佐々木もまた、男の言葉に深く頷いていた。

彼の瞳には、親の期待や世間の評価ではない、彼自身の「絵」への純粋な情熱が宿り始めていた。

彼らの周囲に集まっていた生徒たちは、男の歌声と力強いメッセージに、呆然と立ち尽くしていた。


男は歌い終えると、ギターを肩に担ぎ、人混みの中へ消えていった。


彼は何も名乗らなかった。ただ、去り際にトオルのスケッチブックを指差し、こう言った。


「その絵、まだ終わりじゃないだろ」


白いペンキで半分以上塗りつぶされた壁画。

しかし、トオルの心の中には、消えない確信があった。


「まだ終わってない。……まだ、何も始まってない」

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